ブラタモリ自由が丘|谷なのに丘?九品仏川緑道と谷底の高低差

9月 14, 2026

ブラタモリ自由が丘|ロケ地|谷なのに丘?九品仏川緑道と谷底の高低差を立体図で解説

2026年9月12日(土)の「ブラタモリ」は、東京・自由が丘が舞台です。

上質で洗練された街として知られ、「住んでみたい街」の上位にも選ばれる自由が丘。

しかし、自由が丘駅周辺の地形を調べると、駅があるのは丘の上ではなく、かつて九品仏川が流れていた谷底の低地であることが分かります。

街の誕生から約100年。湿地や農地が広がっていた谷底は、なぜ全国的に知られる憧れの街になったのでしょうか。

今回のブラタモリでは、自由ヶ丘学園に由来する地名、文化人が集まった街の歴史、スイーツ文化、闇市から生まれた自由が丘デパート、九品仏川緑道の放置自転車対策などから、自由が丘を育てた“自由すぎる”街づくりの秘密に迫りました。

この記事でわかること

  • 自由が丘駅が「丘」ではなく谷底にある理由
  • 九品仏川緑道と暗渠になった旧九品仏川の関係
  • 自由が丘駅周辺と高台の標高差
  • 「自由が丘」という地名が生まれた経緯
  • 自由ヶ丘学園とトモヱ学園の記念碑
  • 石井漠が「自由ケ丘」と書いた手紙の逸話
  • モンブランや亀屋万年堂が築いたスイーツ文化
  • 闇市から生まれた自由が丘デパート
  • 九品仏川緑道の放置自転車対策

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ブラタモリ東京・自由が丘の放送内容

番組名 ブラタモリ
放送テーマ 東京・自由が丘▽憧れの街を生んだ“自由すぎる”街づくりとは
放送日時 2026年9月12日(土)19:30~20:07
お題 自由が丘ブランド100年 “自由すぎる”街づくりとは?
主な案内人 古書店店主・西村康樹さん、江戸時代から代々自由が丘に居を構える岡田一弥さん

自由が丘は、2025年度の新築マンションポータルサイト「MAJOR7」の「住んでみたい街アンケート」で、恵比寿、品川に次ぐ3位に選ばれた憧れの街です。

そのブランドイメージは、約100年前から街づくりに関わってきた住民や商店主、文化人たちの自由な発想と行動力によって築かれてきました。

自由が丘の街の始まり|100年前は谷底の湿地だった

ロケ地 衾村名主 岡田家長屋門
住所 東京都目黒区緑が丘1丁目16-24

ブラタモリ一行は、江戸時代から続く地主で、岡田不動産を経営する岡田一弥さんの自宅「衾村名主 岡田家長屋門」を訪問。先祖が残した古地図から、自由が丘の変遷をたどりました。

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明治から大正期の古地図を見ると、この地域には「谷畑」など、「谷」の付く地名が多く記載されています。

現在の地形図と重ね合わせると、自由が丘駅周辺は九品仏川によって削られた浅い谷に位置しており、かつては湿地や水田、農地が広がる、住宅の少ない地域だったことが分かります。

昭和初期には、この一帯は「衾村(ふすまむら)」と呼ばれていました。

関東大震災を教訓に、都心への人口集中を避ける郊外住宅地の開発が進められ、農地を売却して道路を整備し、区画整理が行われました。これが現在の自由が丘の街づくりの始まりです。

自由が丘は谷なのに丘?九品仏川がつくった谷底地形

「自由が丘」と聞くと、丘の上に広がる街を想像しますが、自由が丘駅がある場所は地形的には谷底です。

駅の南側を東西に延びる九品仏川緑道の地下には、かつて地上を流れていた旧九品仏川があります。

九品仏川が武蔵野台地を削ったことで浅い谷が形成され、現在の自由が丘駅周辺は、周囲の台地から見ると「すり鉢の底」や「鍋の底」のような地形になりました。

自由が丘駅周辺の標高

自由が丘の標高差
自由が丘は武蔵野台地を川が削ってできた谷戸地形
場所 標高の目安 地形
自由が丘駅周辺 約25~31m 旧九品仏川がつくった谷底
九品仏川緑道付近 低い場所で約22.5m 旧河道に沿った低地
熊野神社・目黒通り方面 約35~37.5m 武蔵野台地上の高台

九品仏川緑道付近の低地と北側の高台では、約300mの間に最大約15mの高低差があります。平均すると約5%の傾斜に相当します。

前回のブラタモリで紹介された深大寺周辺と同じように、自由が丘も武蔵野台地を川が削ってできた谷戸地形です。

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自由が丘駅周辺の高低差を立体地図で確認


自由が丘駅と九品仏川緑道周辺の高低差を示した立体地図

立体地図の「高台」は、主に次の地域を模式的に表しています。

  • 北~北西側:目黒区自由が丘2丁目・3丁目、目黒通り・八雲方面
  • 南~南東側:世田谷区奥沢2丁目~4丁目、奥沢駅方面
  • 西側:自由が丘3丁目~奥沢6丁目・7丁目、九品仏浄真寺方面

自由が丘駅南口から九品仏川緑道沿いが谷底で、北の自由が丘2・3丁目方面や南の奥沢駅方面へ歩くと、次第に標高が高くなります。

※立体地図について
画像左右の「高台」は特定の住所や建物を正確に再現したものではなく、谷を挟んで台地があることを分かりやすく示した模式図です。

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自由が丘の地名の由来|丘ではなく学校名から誕生

自由が丘という地名は、もともとの地形につけられた名前ではありません。

地名の由来となったのは、教育者・手塚岸衛(てづか・きしえ)が自由主義教育を掲げて創設した「自由ヶ丘学園」です。

九品仏駅から自由ヶ丘駅へ

1927年(昭和2年)に現在の東急東横線が開通した当初、現在の自由が丘駅は「九品仏前駅」と呼ばれていました。

しかし、1929年(昭和4年)に大井町線が開通し、九品仏浄真寺に近い場所へ新たな「九品仏駅」が設けられたため、駅名を変更する必要が生じます。

そこで、地域にあった自由ヶ丘学園にちなみ、住民や文化人らが「自由ヶ丘駅」という名称を求めました。駅名に採用された後、1932年には町名も「自由ヶ丘」となりました。

低湿地を連想させる「谷畑」や「衾村」から、モダンで明るい印象を持つ「自由ヶ丘」へ。現在でいう地名ブランディングの先駆けともいえる出来事です。

地名の由来となった自由ヶ丘学園とは

1928年(昭和3年)、手塚岸衛は自由を尊重する「自由教育」を実践するため、小学校と幼稚園を創設し、「自由ヶ丘学園」と名づけました。

当初は「自由学園」という名称も考えられましたが、すでに羽仁吉一・もと子夫妻が創立した同名の「自由学園」が存在していたため、周辺にあった小さな高まりを「丘」に見立てて「自由ヶ丘学園」としたと伝えられています。

自由ヶ丘学園・トモヱ学園の記念碑

【ロケ地】自由ヶ丘学園小学校・トモヱ学園小学校記念碑

所在地 東京都目黒区自由が丘2-15-4
現在の施設 JIYUGAOKA de aone(自由が丘 デュ アオーネ)
関連 トモヱ学園は黒柳徹子さんの著書「窓ぎわのトットちゃん」の舞台

Notre Havre de Liberté et de Création
自由と創造の我等が母港

1928年(昭和3年)、手塚岸衛は、泉湧き老松を仰ぎみるこの丘に、小学校と幼稚園を創設、「自由ヶ丘学園」と名づけた。

碑文では、この場所にあった小さな高まりを「この丘」と表現しています。

地形的には谷の中にある小さな高まりでも
🕶「丘」と名乗ってよい。🕶
その自由な発想に、タモリさんも納得した様子でした。

🕶タモリさん「谷でも丘って名乗ってもいいんだ……自由だな!」🕶

自由ヶ丘学園跡地から駅までの高低差断面図


自由ヶ丘学園跡地から自由が丘駅周辺までの高低差断面図

地理院地図で自由が丘周辺の地形を見る

石井漠が住所に「自由ケ丘」と書くと手紙が届いた?

「自由が丘」という名前を街に広めた人物の一人が、日本のモダンダンスの先駆者・石井漠(いしい・ばく)です。

石井漠は1928年(昭和3年)、荏原郡衾村に石井漠舞踊研究所を移転しました。

自由ヶ丘学園の名称と、この地域に集まった文化人たちの自由な雰囲気を気に入った石井漠は、正式な町名になる前から、手紙や郵便物の住所に「自由ケ丘」と書いて使用するようになったと伝えられています。

著名な舞踊家だった石井漠宛てに「自由ケ丘」と書かれた郵便物が届くようになり、その名称が住民や文化人の間へ広がっていきました。

自由が丘の名を生み、広めた人物
手塚岸衛:自由ヶ丘学園を創設し「自由ヶ丘」という名称を生んだ人物
石井漠:住所として「自由ケ丘」を使い、文化人や住民へ名称を広めた人物

自由ヶ丘から自由が丘へ|「ヶ」が「が」になった理由

駅周辺へ移り住んだ人々が郵便物などに「自由ヶ丘」を使用するようになり、昭和7年(1932年)6月、碑衾町の大字を再編して「碑衾町大字自由ヶ丘」が正式な町名になりました。

同年10月には東京市への編入によって目黒区が成立します。

その後、住居表示の実施に伴って町名表記が整理され、1965年(昭和40年)に「自由ヶ丘」から、ひらがなの「が」を使った「自由が丘」へ変更されました。

東急電鉄も翌1966年(昭和41年)1月20日、駅名を「自由ヶ丘駅」から「自由が丘駅」へ変更しています。

一方、地名の由来となった「自由ヶ丘学園高等学校」は、現在も学校名に「ヶ」の表記を残しています。

戦時中も「自由が丘」の地名を守った住民たち

番組では、軍国主義が強まった戦時中、「自由」という言葉を含む自由が丘の地名が問題視され、改名を求める圧力があったことも紹介されました。

これに対し、舞踊家の石井漠や地主の栗山久次郎をはじめとする文化人、地域の有力者、住民たちが反対し、「自由が丘」という地名を守ったと伝えられています。

行政から与えられた名前ではなく、自分たちが選び、育ててきた街の名前だったからこそ、住民には強い誇りがありました。

1961年(昭和36年)には、自由が丘駅前に彫刻家・澤田政廣による女神像「蒼穹(あおぞら)」が建立されました。現在も女神像は、自由と文化を大切にする街の象徴になっています。

自由が丘がスイーツの街になった理由

自由が丘が「スイーツの街」と呼ばれるようになった背景には、モダンな文化を受け入れた住民や芸術家の存在と、「東京 自由が丘 モンブラン」「亀屋万年堂」という老舗菓子店の活躍がありました。

日本式モンブランの元祖「東京 自由が丘 モンブラン」

【ロケ地】サンセットアレイ周辺

「東京 自由が丘 モンブラン」は、迫田千万億(さこだ・ちまお)氏が1933年(昭和8年)、当時の目黒区三谷町で創業した洋菓子店です。

戦時中の強制疎開による閉店を経て、1945年(昭和20年)10月に自由ヶ丘1丁目で営業を再開しました。

迫田氏はフランス・シャモニーを訪れた際、名峰モンブランの美しい姿に感動。山の名前を冠した店と菓子を作り、日本人になじみやすい黄色い栗の甘露煮を使った日本式のモンブランを広めました。

包装紙やパッケージに使われた美人画は、迫田氏と親交があった画家・東郷青児によるものです。味だけでなく、芸術や文化を組み合わせた店づくりが、自由が丘の洗練されたイメージを育てました。

亀屋万年堂と「ナボナ」

亀屋万年堂は1938年(昭和13年)12月18日、創業者・引地末治氏によって自由が丘で創業しました。

1963年(昭和38年)には、和菓子と洋菓子の良さを組み合わせた「ナボナ」を発売。ふんわりとした生地でクリームを挟んだ、当時としては新しい和洋折衷のお菓子でした。

1967年には王貞治選手を起用したテレビCMが放送され、「ナボナはお菓子のホームラン王です」というフレーズとともに全国的なヒット商品になりました。

闇市から生まれた自由が丘デパート

【ロケ地】自由が丘デパート

終戦直後の自由が丘駅周辺には、トタン屋根の小さな個人商店が並ぶ「自由ヶ丘マーケット」が形成されました。

その後、マーケットの商店主たちは行政や大手企業だけに頼らず、自ら資金を出し合って建物を建設。1953年(昭和28年)、地上2階・地下1階の鉄筋コンクリート造りの「自由ヶ丘デパート」が開業しました。

日本で初めて「デパート」という名称を掲げた集合商店街ともいわれていますが、一般的な百貨店とは異なり、小さな独立店舗が集まった市場や商店街に近い構造です。

闇市から出発した商店主たちが、自主自立の精神で近代的な商業施設をつくったことも、自由が丘らしい“自由すぎる”街づくりの一例です。

自由が丘ミューズスクエアも住民・地権者主体

自由が丘デパートに隣接する再開発地区には、2026年9月17日(木)、新しい商業施設「JIYUGAOKA MUSE SQUARE(自由が丘ミューズスクエア)」が開業します。

事業主体は「自由が丘一丁目29番地区市街地再開発組合」。大手不動産会社や鉄道会社だけが主導するのではなく、地元地権者や商店主を中心とした組織が計画を進めました。

  • 自由が丘商店街の関係者や地元地権者が中心
  • モンブラン、一誠堂、薮伊豆などの地元老舗も参加
  • ヒューリックや鹿島建設などが事業へ協力
  • 地権者分を除き、住宅は賃貸を中心に構成
  • 街の個性や地域コミュニティーを残すことを重視

約100年前と同様に、再開発でも地域の人々が主体となっている点に、自由が丘の自主自立の精神が受け継がれています。

自由が丘の顔「九品仏川緑道」

【ロケ地】九品仏川緑道

自由が丘駅南口から東西に延びる九品仏川緑道は、旧九品仏川を1974年(昭和49年)に暗渠化し、その上を遊歩道として整備したものです。

九品仏川は九品仏浄真寺付近から自由が丘、緑が丘を通り、大井町線緑が丘駅付近で呑川へ合流していました。

緑道は目黒区と世田谷区の境界付近を通っており、区境をまたぐ場所ならではの整備上の工夫も見られます。

放置自転車をベンチで解決

2000年代前半、九品仏川緑道では放置自転車が増え、美しい景観や歩行者の通行を妨げる問題が起きていました。

そこで地元の地主や商店主らは、緑道にあえてベンチを設置。ベンチを適度な間隔で置くことで、自転車を並べて放置しにくくすると同時に、人々が休憩できる憩いの空間をつくりました。

設置されたベンチは後に自治体へ寄付され、地域と行政が連携して維持されるようになりました。

禁止看板を増やすのではなく、ベンチを置いて人が集まる場所へ変える。この逆転の発想も、自由が丘らしい街づくりです。

ブラタモリ自由が丘のまとめ

自由が丘駅周辺は、地名の印象とは反対に、九品仏川が武蔵野台地を削ってつくった谷底に位置しています。

約100年前には湿地や農地が広がっていましたが、区画整理、自由ヶ丘学園の創設、文化人の移住、商店主による自主的な街づくりによって、現在の自由が丘ブランドが形成されました。

  • 自由が丘駅は九品仏川がつくった谷底にある
  • 「自由が丘」の名称は地形ではなく自由ヶ丘学園が由来
  • 石井漠ら文化人が「自由ケ丘」の名を広めた
  • モンブランと亀屋万年堂がスイーツの街のイメージを築いた
  • 自由が丘デパートは闇市の商店主による自主自立から誕生
  • 九品仏川緑道ではベンチを使って放置自転車問題を解決した
  • 現在の再開発にも住民主体の街づくりが受け継がれている

100年前、谷底に生まれた自由が丘が憧れの街になった最大の理由は、行政任せにせず、自分たちの街を自分たちでつくってきた人々の自由な発想と行動力でした。

🕶 タモリさんからのメッセージ

自由が丘は近所なので、よく散歩に来るというタモリさん。今回じっくり街づくりを見て歩いたことで、「本当に自由な街だった。まさしく“自由が丘”だった」と、街への印象が変わったことを語りました。

参考資料

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