ブラタモリ東大寺ロケ地を巡る|大仏は別の場所に作られるはずだった?幻の紫香楽宮跡
ブラタモリ東大寺ロケ地を巡る!大仏は奈良県とは別の場所に作られるはずだった?幻
の紫香楽宮とは
今回の「ブラタモリ」は、奈良・東大寺を舞台にした78分スペシャル!
タモリさんと佐藤茉那アナウンサーが東大寺のロケ地を巡りながら、1300年守り継がれてきた東大寺の「はじまりの秘密」に迫りました。
東大寺といえば奈良の大仏で知られていますが、実は大仏は最初から現在の東大寺に造られる予定だったわけではありません。
聖武天皇が最初に大仏造立を進めた場所は、現在の滋賀県甲賀市にあった紫香楽宮(しがらきのみや)周辺でした。
なぜ大仏は紫香楽から奈良へ移ることになったのでしょうか?
この記事では、番組で登場した東大寺・唐招提寺のロケ地を放送の順路に沿って紹介しながら、大仏造立に込めた聖武天皇の思い、修二会、幻の紫香楽宮、鑑真和上と東大寺の関係まで紹介します。
この記事でわかること
- ブラタモリ東大寺のロケ地と巡った順番
- 1300年続く東大寺の「はじまりの秘密」
- 聖武天皇が大仏造立に託した思い
- 奈良の大仏が最初に造られる予定だった場所
- 幻の紫香楽宮と甲賀寺跡
- 奈良時代から続く修二会(お水取り)
- 鑑真和上と東大寺・唐招提寺の関係
ブラタモリ東大寺|今回の旅のお題
今回の旅のお題は、
「1300年続く東大寺の“はじまりの秘密”とは?」
巨大な大仏殿から始まったように思える東大寺ですが、そのルーツを探していくと、山の中腹に建てられた小さなお堂や聖武天皇の願いへとつながっていきます。
【ロケ地1】東大寺大仏殿の参道からスタート
ブラタモリ東大寺の旅は大仏殿の参道からスタート。
大仏殿参道の石畳には特徴があります。
中央から左右へ、仏教がインドから日本へ伝来したルートを表すように、それぞれの地域に関係する石が使われています。
日本 ← 朝鮮半島 ← 中国 ← インド → 中国 → 朝鮮半島 → 日本
大仏殿へ向かう参道そのものにも、仏教伝来の歴史が表現されているのです。
東大寺名物「柱くぐり」
大仏殿の柱の一本には、人が通り抜けられる穴が開いています。
いわゆる「柱くぐり」で、穴をくぐると「無病息災」「祈願成就」「頭がよくなる」などのご利益があると伝えられています。
- 穴の大きさ:縦約37cm
- 横:約30cm
- 大仏の鼻の穴と同じくらいの大きさといわれる
【ロケ地2】東大寺最古のお堂・法華堂(三月堂)
続いて訪れたのが法華堂(三月堂)。
案内人は東大寺研究所の栄原永遠男所長です。
法華堂が「東大寺のはじまり」といわれる理由
- 毎年3月に法華会が行われていたことから「三月堂」と呼ばれる
- 聖武天皇が728年に夭折した皇太子・基親王の菩提を弔うために建てた山房にルーツを持つ
- 山の中腹にあり、僧侶の修行に適した場所だった
- 奈良時代の国宝仏像が多数安置されている
- 本尊は不空羂索観音立像
- 華厳経の大規模な講説が行われ、後の大仏造立へつながった
ここで重要なのが「華厳」の思想です。
すべての存在が互いにつながり、調和するという華厳の教えが、やがて多くの人々を救うための大仏造立へと発展していきます。
聖武天皇が我が子のために建てた山房から、やがてすべての人々のための東大寺へ。
ここに東大寺の「はじまりの秘密」の一つがありました。
【ロケ地3】二月堂|奈良時代から続く修二会
法華堂の隣にある二月堂へ。
奈良時代から続く「修二会」とは?
二月堂で行われることで有名なのが修二会(しゅにえ)です。
「お水取り」の名でも知られています。
- 752年に始まったとされる
- 国家の安定や人々の幸福を祈る
- 日々の罪を懺悔する「十一面悔過」の法要
- 良弁僧正の弟子・実忠和尚によって始められたとされる
法華堂(三月堂)や二月堂など、山の中腹にあるお堂が東大寺の成立と深く関係していたことが分かります。
大仏造立に託した聖武天皇の思い
聖武天皇の時代、日本は政治的な混乱に加え、疫病や災害など相次ぐ困難に見舞われました。
聖武天皇は仏教の力によって国を安定させ、人々を救おうと考えるようになります。
その象徴ともいえる壮大な事業が盧舎那大仏の造立でした。
奈良の大仏は別の場所に造られるはずだった?
ここが今回のブラタモリでも特に興味深いポイントです。
現在の奈良・東大寺にある大仏は、当初から奈良で造り始められたわけではありません。
「彷徨五年」と幻の紫香楽宮
740年から745年ごろ、聖武天皇は平城京を離れ、都を転々としました。
この時期は「彷徨五年(ほうこうごねん)」とも呼ばれます。
そして743年、聖武天皇は紫香楽宮(現在の滋賀県甲賀市周辺)で大仏造立の詔を発しました。
大仏造立は、紫香楽宮近くの甲賀寺跡で始められたとされています。
つまり奈良の大仏は、別の場所に造られるはずだった!
現在の滋賀県甲賀市にある紫香楽宮周辺で大仏造立が始められ、その後、計画は奈良へ移っていきました。
その後、紫香楽での大仏造立は地震の影響で中断され、都も再び平城京へ戻ります。
そして大仏造立の舞台は奈良へと移っていきました。
【ロケ地4】猫段(猫坂)|大仏殿が建てられた場所の秘密
大仏殿の東側から大鐘楼方面へ上る石段が「猫段(猫坂)」です。
「ここで転ぶと来世は猫になる」という言い伝えでも知られています。
注目したのは、その高低差約15m。
この高低差は、もともとの山裾の丘陵地形を削った名残と考えられています。
周辺には砂礫を主体とする地層が分布し、巨大な建造物である大仏殿の立地を考えるうえでも興味深いポイントです。
大仏造立には延べ260万人以上が関わった
大仏は天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われました。
『東大寺要録』には、大仏造立に関わった人数として次の数字が記されています。
- 材木関係の技術者:51,590人
- その配下の労働者:1,665,071人
- 金属関係の技術者:372,075人
- その配下の労働者:514,902人
合計延べ2,603,638人という途方もない規模です。
東大寺の大仏造立が、当時としては桁違いの国家的大事業だったことがうかがえます。
【ロケ地5】東大寺・講堂および三面僧房跡
続いて訪れたのが東大寺の講堂および三面僧房跡。
大仏殿の北側にあり、奈良時代の僧侶たちが学問を修め、生活した大規模な伽藍の跡です。
東大寺に足りなかったものとは?
巨大な大仏と大仏殿を完成させた東大寺。
しかし、当時の日本仏教には大きな課題がありました。
それが正式な「授戒(じゅかい)」を行うための体制です。
授戒とは、僧侶として守るべき戒律を授ける重要な儀式です。
そこで唐から日本へ招かれたのが鑑真和上でした。
鑑真は幾度もの渡航失敗を乗り越え、754年に来日。その後、日本で戒律を伝えていきます。
【ロケ地6】唐招提寺|鑑真和上のその後を探る
ブラタモリ一行は東大寺を離れ、唐招提寺へ。
唐招提寺・金堂
鑑真は東大寺で戒律を伝えた後、唐招提寺へと活動の場を移しました。
唐招提寺では、僧侶たちが戒律を学ぶための場が形成されていきます。
【ロケ地7】唐招提寺・経蔵
唐招提寺の経蔵は国宝に指定されています。
【ロケ地8】唐招提寺・開山堂
開山堂には、国宝「鑑真和上坐像」を忠実に再現した「お身代わり像」が安置されています。
国宝の鑑真和上坐像は通常公開ではありませんが、お身代わり像は通年で拝観できます。
お身代わり像も本像と同じ脱活乾漆造によって制作され、無精ひげなど細部まで表現されています。
鑑真和上が日本に伝えた「五戒」
鑑真和上が伝えた戒律の基本として、在家の人々にも関係する五戒があります。
- 不殺生戒:生き物を故意に殺さない
- 不偸盗戒:他人のものを盗まない
- 不邪淫戒:不適切な男女関係を持たない
- 不妄語戒:嘘をつかない
- 不飲酒戒:酒によって心を乱し過ちを犯さない
【ロケ地9】唐招提寺・講堂と論議台
唐招提寺の講堂では、師匠と弟子が問答しながら仏教を学ぶ場が設けられていました。
論議台では、西側に師匠が座り、向かい側に弟子が座って問答。その様子をほかの弟子たちも聞きながら学びを深めていったと紹介されました。
東大寺では国家的な役割の中で戒律を授けた鑑真。
唐招提寺では、さらに戒律を学び、伝えていくための開かれた学びの場へとつながっていきます。
東大寺と唐招提寺をつなぐ「盧舎那仏」
鑑真和上は唐招提寺で晩年を過ごし、76歳で亡くなりました。
その後、弟子たちによって金堂が建立されます。
唐招提寺金堂の本尊は、東大寺と同じ盧舎那仏坐像。
東大寺と唐招提寺の深いつながりを感じさせる重要なポイントです。
旅の最後は夜の東大寺へ
旅の最後に登場したのは、夜の東大寺。
案内人は東大寺第225世別当・華厳宗管長の橋村公英大僧正です。
夜の大仏殿では、室内の明かりに照らされた大仏が、昼間とは異なる姿を見せます。
大仏殿の観相窓が開かれる機会は限られており、お盆や年越しなど特別な機会に、大仏のお顔を外から拝することができます。
関連記事|ブラタモリ大仏殿の窓が夜開き仏様の顔が見られる夜間参拝方法
大仏殿の窓が夜開き大仏様の顔が見られる夜間参拝の日程や料金などについてはこちらの記事で詳しく紹介しています。
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ブラタモリ東大寺ロケ地まとめ
1300年前、聖武天皇の願いから始まった東大寺。
その「はじまり」をたどってみると、大仏殿だけではなく、法華堂や二月堂、そして幻となった紫香楽での大仏造立へと歴史がつながっていました。
さらに鑑真和上によって戒律が伝えられ、その精神は唐招提寺へと受け継がれていきます。
今回のブラタモリのポイント
- 東大寺の原点の一つは山中の法華堂(三月堂)
- 二月堂では奈良時代から修二会が受け継がれてきた
- 聖武天皇は仏教の力で国と人々を救おうとした
- 大仏造立は最初、滋賀県の紫香楽で進められた
- その後、大仏造立の舞台は奈良へ移った
- 鑑真和上によって日本に戒律が伝えられた
- 東大寺と唐招提寺は盧舎那仏を通しても深くつながっている
聖武天皇から始まった願いを、その後の僧侶や多くの人々が受け止め、守り伝えてきたこと。
その「受け継ぐ力」こそが、東大寺が1300年にわたって続いてきた大きな秘密なのかもしれません。
今回の「ブラタモリ」は、奈良・東大寺を舞台にした78分スペシャル!
タモリさんと佐藤茉那アナウンサーが東大寺のロケ地を巡りながら、1300年守り継がれてきた東大寺の「はじまりの秘密」に迫りました。
東大寺といえば奈良の大仏で知られていますが、実は大仏は最初から現在の東大寺に造られる予定だったわけではありません。
聖武天皇が最初に大仏造立を進めた場所は、現在の滋賀県甲賀市にあった紫香楽宮(しがらきのみや)周辺でした。
なぜ大仏は紫香楽から奈良へ移ることになったのでしょうか?
この記事では、番組で登場した東大寺・唐招提寺のロケ地を放送の順路に沿って紹介しながら、大仏造立に込めた聖武天皇の思い、修二会、幻の紫香楽宮、鑑真和上と東大寺の関係まで紹介します。
- ブラタモリ東大寺のロケ地と巡った順番
- 1300年続く東大寺の「はじまりの秘密」
- 聖武天皇が大仏造立に託した思い
- 奈良の大仏が最初に造られる予定だった場所
- 幻の紫香楽宮と甲賀寺跡
- 奈良時代から続く修二会(お水取り)
- 鑑真和上と東大寺・唐招提寺の関係
ブラタモリ東大寺|今回の旅のお題
今回の旅のお題は、
「1300年続く東大寺の“はじまりの秘密”とは?」
巨大な大仏殿から始まったように思える東大寺ですが、そのルーツを探していくと、山の中腹に建てられた小さなお堂や聖武天皇の願いへとつながっていきます。
【ロケ地1】東大寺大仏殿の参道からスタート
ブラタモリ東大寺の旅は大仏殿の参道からスタート。
大仏殿参道の石畳には特徴があります。
中央から左右へ、仏教がインドから日本へ伝来したルートを表すように、それぞれの地域に関係する石が使われています。
日本 ← 朝鮮半島 ← 中国 ← インド → 中国 → 朝鮮半島 → 日本
大仏殿へ向かう参道そのものにも、仏教伝来の歴史が表現されているのです。
東大寺名物「柱くぐり」
大仏殿の柱の一本には、人が通り抜けられる穴が開いています。
いわゆる「柱くぐり」で、穴をくぐると「無病息災」「祈願成就」「頭がよくなる」などのご利益があると伝えられています。
- 穴の大きさ:縦約37cm
- 横:約30cm
- 大仏の鼻の穴と同じくらいの大きさといわれる
【ロケ地2】東大寺最古のお堂・法華堂(三月堂)
続いて訪れたのが法華堂(三月堂)。
案内人は東大寺研究所の栄原永遠男所長です。
法華堂が「東大寺のはじまり」といわれる理由
- 毎年3月に法華会が行われていたことから「三月堂」と呼ばれる
- 聖武天皇が728年に夭折した皇太子・基親王の菩提を弔うために建てた山房にルーツを持つ
- 山の中腹にあり、僧侶の修行に適した場所だった
- 奈良時代の国宝仏像が多数安置されている
- 本尊は不空羂索観音立像
- 華厳経の大規模な講説が行われ、後の大仏造立へつながった
ここで重要なのが「華厳」の思想です。
すべての存在が互いにつながり、調和するという華厳の教えが、やがて多くの人々を救うための大仏造立へと発展していきます。
聖武天皇が我が子のために建てた山房から、やがてすべての人々のための東大寺へ。
ここに東大寺の「はじまりの秘密」の一つがありました。
【ロケ地3】二月堂|奈良時代から続く修二会
法華堂の隣にある二月堂へ。
奈良時代から続く「修二会」とは?
二月堂で行われることで有名なのが修二会(しゅにえ)です。
「お水取り」の名でも知られています。
- 752年に始まったとされる
- 国家の安定や人々の幸福を祈る
- 日々の罪を懺悔する「十一面悔過」の法要
- 良弁僧正の弟子・実忠和尚によって始められたとされる
法華堂(三月堂)や二月堂など、山の中腹にあるお堂が東大寺の成立と深く関係していたことが分かります。
大仏造立に託した聖武天皇の思い
聖武天皇の時代、日本は政治的な混乱に加え、疫病や災害など相次ぐ困難に見舞われました。
聖武天皇は仏教の力によって国を安定させ、人々を救おうと考えるようになります。
その象徴ともいえる壮大な事業が盧舎那大仏の造立でした。
奈良の大仏は別の場所に造られるはずだった?
ここが今回のブラタモリでも特に興味深いポイントです。
現在の奈良・東大寺にある大仏は、当初から奈良で造り始められたわけではありません。
「彷徨五年」と幻の紫香楽宮
740年から745年ごろ、聖武天皇は平城京を離れ、都を転々としました。
この時期は「彷徨五年(ほうこうごねん)」とも呼ばれます。
そして743年、聖武天皇は紫香楽宮(現在の滋賀県甲賀市周辺)で大仏造立の詔を発しました。
大仏造立は、紫香楽宮近くの甲賀寺跡で始められたとされています。
現在の滋賀県甲賀市にある紫香楽宮周辺で大仏造立が始められ、その後、計画は奈良へ移っていきました。
その後、紫香楽での大仏造立は地震の影響で中断され、都も再び平城京へ戻ります。
そして大仏造立の舞台は奈良へと移っていきました。
【ロケ地4】猫段(猫坂)|大仏殿が建てられた場所の秘密
大仏殿の東側から大鐘楼方面へ上る石段が「猫段(猫坂)」です。
「ここで転ぶと来世は猫になる」という言い伝えでも知られています。
注目したのは、その高低差約15m。
この高低差は、もともとの山裾の丘陵地形を削った名残と考えられています。
周辺には砂礫を主体とする地層が分布し、巨大な建造物である大仏殿の立地を考えるうえでも興味深いポイントです。
大仏造立には延べ260万人以上が関わった
大仏は天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われました。
『東大寺要録』には、大仏造立に関わった人数として次の数字が記されています。
- 材木関係の技術者:51,590人
- その配下の労働者:1,665,071人
- 金属関係の技術者:372,075人
- その配下の労働者:514,902人
合計延べ2,603,638人という途方もない規模です。
東大寺の大仏造立が、当時としては桁違いの国家的大事業だったことがうかがえます。
【ロケ地5】東大寺・講堂および三面僧房跡
続いて訪れたのが東大寺の講堂および三面僧房跡。
大仏殿の北側にあり、奈良時代の僧侶たちが学問を修め、生活した大規模な伽藍の跡です。
東大寺に足りなかったものとは?
巨大な大仏と大仏殿を完成させた東大寺。
しかし、当時の日本仏教には大きな課題がありました。
それが正式な「授戒(じゅかい)」を行うための体制です。
授戒とは、僧侶として守るべき戒律を授ける重要な儀式です。
そこで唐から日本へ招かれたのが鑑真和上でした。
鑑真は幾度もの渡航失敗を乗り越え、754年に来日。その後、日本で戒律を伝えていきます。
【ロケ地6】唐招提寺|鑑真和上のその後を探る
ブラタモリ一行は東大寺を離れ、唐招提寺へ。
唐招提寺・金堂
鑑真は東大寺で戒律を伝えた後、唐招提寺へと活動の場を移しました。
唐招提寺では、僧侶たちが戒律を学ぶための場が形成されていきます。
【ロケ地7】唐招提寺・経蔵
唐招提寺の経蔵は国宝に指定されています。
【ロケ地8】唐招提寺・開山堂
開山堂には、国宝「鑑真和上坐像」を忠実に再現した「お身代わり像」が安置されています。
国宝の鑑真和上坐像は通常公開ではありませんが、お身代わり像は通年で拝観できます。
お身代わり像も本像と同じ脱活乾漆造によって制作され、無精ひげなど細部まで表現されています。
鑑真和上が日本に伝えた「五戒」
鑑真和上が伝えた戒律の基本として、在家の人々にも関係する五戒があります。
- 不殺生戒:生き物を故意に殺さない
- 不偸盗戒:他人のものを盗まない
- 不邪淫戒:不適切な男女関係を持たない
- 不妄語戒:嘘をつかない
- 不飲酒戒:酒によって心を乱し過ちを犯さない
【ロケ地9】唐招提寺・講堂と論議台
唐招提寺の講堂では、師匠と弟子が問答しながら仏教を学ぶ場が設けられていました。
論議台では、西側に師匠が座り、向かい側に弟子が座って問答。その様子をほかの弟子たちも聞きながら学びを深めていったと紹介されました。
東大寺では国家的な役割の中で戒律を授けた鑑真。
唐招提寺では、さらに戒律を学び、伝えていくための開かれた学びの場へとつながっていきます。
東大寺と唐招提寺をつなぐ「盧舎那仏」
鑑真和上は唐招提寺で晩年を過ごし、76歳で亡くなりました。
その後、弟子たちによって金堂が建立されます。
唐招提寺金堂の本尊は、東大寺と同じ盧舎那仏坐像。
東大寺と唐招提寺の深いつながりを感じさせる重要なポイントです。
旅の最後は夜の東大寺へ
旅の最後に登場したのは、夜の東大寺。
案内人は東大寺第225世別当・華厳宗管長の橋村公英大僧正です。
夜の大仏殿では、室内の明かりに照らされた大仏が、昼間とは異なる姿を見せます。
大仏殿の観相窓が開かれる機会は限られており、お盆や年越しなど特別な機会に、大仏のお顔を外から拝することができます。
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大仏殿の窓が夜開き大仏様の顔が見られる夜間参拝の日程や料金などについてはこちらの記事で詳しく紹介しています。
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ブラタモリ奈良・関連記事
ブラタモリ東大寺ロケ地まとめ
1300年前、聖武天皇の願いから始まった東大寺。
その「はじまり」をたどってみると、大仏殿だけではなく、法華堂や二月堂、そして幻となった紫香楽での大仏造立へと歴史がつながっていました。
さらに鑑真和上によって戒律が伝えられ、その精神は唐招提寺へと受け継がれていきます。
- 東大寺の原点の一つは山中の法華堂(三月堂)
- 二月堂では奈良時代から修二会が受け継がれてきた
- 聖武天皇は仏教の力で国と人々を救おうとした
- 大仏造立は最初、滋賀県の紫香楽で進められた
- その後、大仏造立の舞台は奈良へ移った
- 鑑真和上によって日本に戒律が伝えられた
- 東大寺と唐招提寺は盧舎那仏を通しても深くつながっている
聖武天皇から始まった願いを、その後の僧侶や多くの人々が受け止め、守り伝えてきたこと。
その「受け継ぐ力」こそが、東大寺が1300年にわたって続いてきた大きな秘密なのかもしれません。