ファミリーヒストリー 堤真一!祖父の警察官として功績と母は奈良の旧家出身!再放送や見逃し動画配信とネタバレと家系図!
今回のファミリーヒストリーは「堤真一~寡黙だった父 家族への思い~」と題し、俳優・堤真一さんのルーツに迫りました。
堤真一さんの熊本出身の父親は無口で37年前に癌で無くし、初めて父方のルーツを知り、取材で明らかになった事実に驚きを隠せませんでした。
祖父は警察官として地域を守り続け、生きざまに感心します。
無口だった父が秘めていた家族への思いを知り、涙が溢れました。
堤真一さんのルーツの事実は驚きの連続で、堤姓の由来も明かされました。
この投稿では、ファミリーヒストリー・堤真一さんの放送内容のレビューと見逃し動画配信をご案内します。
【本放送】2021年10月25日(月曜日)19時30分~20時42分 (72分)
【再放送】2021年10月28日(木曜日)23時35 ~ 0時47分 (72分)
動画をお探しの方は見逃し配信で観ることが可能ですよ♪
「堤真一~寡黙だった父 家族への思い~」あらすじ
兵庫県西宮市のマンモス団地で生まれ育った堤真一さんの熊本出身の父親は無口で37年前に癌で無くしました。
その為、父方のルーツは全く知らないままでした。
ファミリーヒストリー取材チームにより祖父は熊本県の“駐在さん”として地域の暮らしを守り続けた警察官で様々な功績が明らかとなりました。
取材で明らかになった事実に驚きを隠せませんでした。
父は東大受験を勧められるほどの秀才でしたがが、夢を断念していた。
奈良県の江戸時代から続く旧家出身の母も経済的な理由で女学校を中退し、結婚後、二人は団地での平穏な暮らしを何よりも大事にしていました。
末期がんにより病床の父は夢を追う真一さんを静かに応援し、その心の内を知り、堤真一さんは涙が止まりませんでした。
堤真一さんの父方(堤家)の家系図
【高祖父】平次郎
【曽祖父】喜吉(きよし)
【祖父】次郎(明治31年・1898年誕生)警察官
【祖母】初枝
【父】静雄
【母】登美子
堤真一さんの父方の家系は、熊本県宇土市にルーツがありました。
出身地は、堤地区で現在30軒程が住んでいます。
江戸時代の干拓堤防があり、その内側が干拓地となっていたそうです。
この堤防の一文字から干拓地は、「堤地区」と名付けられたとの事です。
この地名から「堤家」は、名字をとった可能性がある、との事です。
【高祖父】平次郎
弥平さんは明治9年の帳簿から30箇所以上、3500坪以上の土地を所有していた事が判りました。
【曽祖父】喜吉(きよし)
曽祖父・喜吉さんは明治37年の村会の議事録によると、亜光村の村会議員となり、3期10年に渡り、村会議員を努めていた事が判りました。
この事から堤家は「堤地区」で有力な家系であった事が判りました。
【祖父】次郎
祖父・次郎さんは、大正9年(1920年)熊本県の警察官になりました。
24歳の時、黒肥地村(村民3200人)の駐在さんになりました。
当時の駐在は、治安を守るのは勿論、消防や保健所のような役割も担っていたそうです。
【父】静雄
大正14年(1924年)父となる静雄さんが誕生しました。
戸籍簿には岡原村駐在所にて出生の記録があり、駐在所で誕生したことが判りました。
静雄さんが小学校を卒業するまでの間に6箇所もの駐在所に勤務していました。
昇進を望まず、駐在さんと呼ばれ地域の方々に愛され、地域の治安を守ることに力を注いだそうです。
そんな中、賭博を行っていたやくざ紛いの人物8人を検挙するという手柄も立てていました。
日頃からの住民との信頼関係から情報を収集した結果との事です。
しかし、この転勤の多さは、静雄さんは中々友達ができず、大人になってからの静雄さんの行き方にも影響を与えました。
その為、人と話すよりも本を読んでいる様な幼少時代だったそうです・
静雄さんは、昭和12年(1937年)川俣尋常小学校を卒業しました。
その後も次郎さんは転勤となりましたが、引っ越しを嫌がる静雄さんは叔母トリエさんの家に預けられ、熊本県立宇土中学校(旧制中学校)に通うようになりました。
旧制中学校は、現在の高校に当たり当時11校しかない狭き門の一つに合格したのでした。
当時の旧制中学校は勉強が出来るのは勿論お金がかかり、旧制中学校に進学出来るのはハードルが高かったそうです。
下宿していたトリエさんの孫に当たる田代義勝さんのよると、静雄さんは物静かで頭が良く東京大学進学を薦められる程で将来は外交官になりたかった、と伝えられていました。
しかし現実的には警察官の給料では、学費のかかる大学は諦めざるを得ませんでした。
太平洋戦争の真っ只中、昭和18年に陸軍の下士官の養成の為の陸軍幹部特別候補生(期間1年半)の応募が始まりました。
大学進学を諦めた次郎さんは応募を決めました。
そして合格し、岐阜陸軍航空整備学校に入学しました。
しかし、入校から1年半で終戦を迎え兵役を終えました。
退役し復員すると職を求め、昭和22年業務拡張中の兵庫県神戸市の神戸製鋼所に就職し山手工場に配属され溶接棒の制作部署の包装ラインを担当していました。
当時の部下によりと、寡黙で真面目で余計なことは言わない我慢強い人、という性格で堤真一さんが持つ父親像と一致しており、家でも職場でもそのままの方だった様です。
しかも仕事が終われば定時制学校で学び、兵庫県立武庫高等学院を昭和24年(1949年)24歳で卒業していました。
そんな真面目な静雄の唯一の楽しみがお酒を嗜むことで、サザエ食堂で飲むことが多くなり、看板娘で将来妻となる山下登美子さんと出会いました。
堤真一さんの母方(山下家)の家系図
【高祖父】喜平
【曽祖父】冨吉
【祖父】利一
【父】堤静雄
【母】登美子
母方山下家は、奈良県宇陀市にルーツが有りました。
城下町として栄え、現在も町並みには、その風情が残っています。
【5代前】喜兵衛
稼人・喜兵衛さんは今で言う古物商を営んでいました。
【祖父】利一
明治33年(1900年)生まれの祖父・利一さんは兄・徳治郎さんが営む大阪・梅田で呉服屋「てつや」の手伝いをしていた事が判りました。
大阪天満宮に行く参道に挟まれるような場所にあり立地は商いをするには抜群でした。
仕事が素晴らしく芦屋のお金持ちもお得意さんにいる程でした。
また一度袖を通したらもう着ないというお客さんから服を引き取り、芸者衆にリサイクルするという仕事は、SDGsのはしりでも有りました。
阪神全盛期に甲子園球場のウグイス嬢をしていた堤真一さんの姉・堤紗代子さんによると、登美子さんはいつも綺麗な服を着て恵まれた生活をしていたそうです。
しかし、昭和14年お店を牽引していた利一の兄徳治郎さんが51歳の若さで亡くなりました。
更に日中戦争の最中、贅沢品の販売が規制され「てつや」の服も嗜好品として製造販売を禁止されてしまいました。
利一さんは故郷の奈良県に家族を引き連れ戻りました。
その為、「てつや」は店を閉じることになってしまいました。
利一さんは、蓄えを奥さんに託し、一旗揚げようと満州に単身向かいました。
昭和19年(1944年)登美子さんは、奈良県宇陀高等女学校に入学しました。
翌年戦争が終わると利一さんは無一文で日本に帰って来ました。
その為、登美子さんは金銭面で苦しくなり女学校を中退することになったそうです。
そして神戸の叔母夫婦が営む食堂サザエ食堂を手伝うことになりました。
サザエ食堂
サザエ食堂が嘗てあった場所・灘区桜口町5丁目(現在はウェルブ六甲道5番街1番館が入っているマンション辺り)
登美子さんは、とみちゃんと相性で呼ばれ、べっぴんさんで看板娘だったとの事です。
神戸製鋼所で働く静雄さんは常連だったそうです。
静雄さんがラブレターを渡し、交際が始まり37年結婚しました。
浜甲子園団地
結婚すると関西で2番めに150棟もある大きい規模の団地「浜甲子園団地」の98号棟に居を構えました。
ここで堤真一さんは誕生しました。
静雄さんは結婚しても読書が趣味で無口な方でした。
そして仕事は、大阪茨木市の工場で工場長を勤めていました。
登美子さんは、飲食店で働くようになっていました。
そんな中、静雄さんは真面目な仕事で信頼されており、広島県西条市の工場に指導者として転勤が決まりましたが、堤真一さんが友達と分かれるのが嫌と反対しました。
静雄さん自身も警察官であった祖父・次郎さんの転勤が多かった為、堤真一さんの気持ちが良くわかり、転勤を断ったそうです。
反抗期
堤真一さんは野球少年でしたが、中学の時にケガをして試合に出場に出れない悔しさから高校でも野球を続けました。
しかし1年目で退部すると目標を失い自暴自棄になり、不登校になり引きこもりがちになりました。
無口な父・静雄さんに高校を辞める事を告げその理由を
「あんたみたいなサラリーマンになりたくない。
毎日同じ時間に出て、そういうことしたくない」
と放言すると、無口な父親は
「サラリーマンの苦しみが分からんやつは、何をやっても一緒や」
と核心をついた叱咤を受けました。
この言葉に「負けた」と痛感し、心労が重なった母が号泣したこともあり、引きこもりから脱することができたそうです。
堤真一さんは高校3年生になるとアクション俳優になりたい、と夢を抱く様になり、ジャパンアクションクラブ入団を決め、京都の養成所に入所が決まりました。
この頃から父・静雄さんは肺がんの進行が始まり余命3ヶ月と宣告されました。
闘病が9ヶ月の頃、堤真一さんは東京の養成所に移ることになりました。
お互いに命が長くない事を悟っており、上京前日に最後のお見舞いに行くと、友人の車で来た事を知ると切符を来られるからと、父・静雄さんから10分もしないうちに帰るよう促されました。
病室から出ようとすると、無口な静雄さんは「真一!元気でな!」
と一言だけ声を振り絞って言いました。
これが父・静雄さんからの最期の言葉と悟り、堤真一さんは振り返ることもできず、病室を出たところで人目もはばからずに泣き崩れたそうです。
そして、父・静雄さんは、1ヶ月後60歳の若さで亡くなりました。
母親の応援
母・登美子さんからは、お金は出すからアルバイトはするな!と言葉をかけれていたそうです。
大切な時間をアルバイトで潰さずに芸の勉強に使えるように、との想いがあったからでした。
転機
しかし堤真一さんは、膝に爆弾を抱えていました。
激しいアクションの為、膝を壊してしまったのでした。
そんな中、21歳で坂東玉三郎さんの舞台「天守物語」に黒子として獅子の中に入って出演する事になりました。
そこで坂東玉三さんに黒子であろうが一つ一つの動きに意味がある、と厳しく指導されました。
この坂東玉三さんの指導にとり、演じることの奥深さに気づかされました。
このことからスタントマンより俳優を目指すようになりました。
そして、俳優とし大河ドラマに出演するなど頭角を現し1987年のNHKのドラマスペシャル「橋の上においでよ」で主演が決まりました。
そして2000年に放映されたTVドラマ「やまとなでしこ」が大ヒットし、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年)では日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞しました。
ファミリーヒストリー見逃し動画配信
ファミリーヒストリー「堤真一」再放送2021年10月28日です。
見逃した方や、もう一度ご覧になりたい方は、見逃し動画配信がオススメですよ~♪
ファミリーヒストリーの動画をお探しの方は見逃し配信で観ることが可能ですよ♪
ファミリーヒストリーの人気投稿
ファミリーヒストリーの投稿一覧はコチラ
ファミリーヒストリーの人気投稿はコチラで~す♪
福山雅治
広末涼子
長谷川博己の先祖は鳥取県大山寺の開祖で島根県玉造温泉長楽園を経営!
神田伯山の父親の死因と家系図
柳葉敏郎の姉!
神田伯山の高祖父・福岡庄太郎は柔術家でパラグアイの英雄に!
鶴田真由の先祖は新選組の森常吉?
鶴見辰吾の母親方の祖先は岡崎城城主・本多康重の家系
ナイツ・土屋家のルーツは元寇の伝説武将!斎藤資定(すけさだ)とは?
爆笑問題・田中裕二の祖先は豪商の平田一族?
ファミリーヒストリー ハリセンボン・近藤春菜の父は警視庁捜査二課の刑事で相棒のモデルはガセ!
ファミリーヒストリー バカリズム~母の結婚相手は資産家でルーツは福岡藩士や裁判所の書紀!
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません