ファミリーヒストリー!神田伯山の父親の死因と家系図
NHKの著名人のファミリーのルーツを探る番組「ファミリーヒストリー」面白いですね。
今回はそんな「ファミリーヒストリー」は面白い時と、そうでもない時がある!
・・・とファミリーヒストリーディレクターに突っ込むという異例のスタートで始まった講談師・6代目神田伯山さんの回を楽しく拝聴しました。
前回観たフリーアナウンサーの古舘伊知郎さんの回が自分にとって神回でした。
しかし、今回の神田伯山さんの先祖が凄すぎました!
5代前の先祖(高祖父)福岡庄太郎は
柔術家でパラグアイの英雄だった事が判明!
しかも、あのコンデ・コマこと前田光世と一緒に柔術を広めたとか!!
そして曽祖父は明治末期、
徳冨蘆花に憧れ佐賀から上京し
早稲田大学で英文学を学び、
今も続く出版社「春秋社」を立ち上げ
トルストイ全集の発行に携わり大ヒット!
また本名は、古舘克彦でフリーアナウンサーの古舘伊知郎との関係が?
神田伯山の家系図
【6代前】興四郎(唐津藩・小笠原家の家臣)
【5代前】篤敬
【5代前(福岡家)】善助
【5代前(福岡家)】ナカ
【高祖父】小源太(牟田部炭鉱の作業員を監督)
【高祖父(福岡家)】庄太郎(格闘家・柔術)
【曽祖母(福岡家)】シズヨ
【曽祖父】清太郎
【祖父】融(講道館柔道三段)
【祖母】(大木)瑩子
【父】豊
【5代目前】利重
【高祖父】嘉吉
【曽祖父】利太郎
【祖父】順一郎
【母】ミエ子
本名は、古舘克彦でフリーアナウンサーの古舘伊知郎との関係が?
神田伯山の本名は、古舘克彦で古館家のルーツは佐賀県です。
これを聴いてピンと来た人は、
以前放送された古舘伊知郎さんのファミリーヒストリーをご覧になった方でしょうね!
自分もピン!と来ました。
古舘伊知郎さんの家系も佐賀県がルーツで、
佐賀県唐津市の名護屋(なごや)地帯の古館という地域からとった名前と佐賀県唐津市の学芸員の黒田さんが解説されました。
神田伯山の祖先も同じ集落の出身で、
古館姓を名乗ったとの事が判明しており、
その学芸員の黒田さんも
「ファミリーヒストリーに2回取材を受けるとは思ってもいませんでした」
と苦笑いしていました!(笑)
古舘伊知郎さんのファミリーヒストリーの内容はコチラにまとめています。
古舘家は、佐賀県唐津市の名護屋(なごや)地帯がルーツだそうです。
平安時代・唐津の北西部・名護屋肥前守入道藤原朝臣経元
(ふじわらつねもと)
が名護屋一帯を収めたそうで、
名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮に出兵の起点とした場所だそうです。その地に「古館」という小字がありました。
そこが古館家の始まりと考えられているそうです。
武士の家系
古館家は、松雲寺が菩提寺で
その先祖の名前から
古館家は西旗町(にしはたちょう)に住んでいた事が判りました。
「ちょう」と読めば武士
「まち」と読めば商人で、
それが士族か町人かがわかるそうです。
その事から神田伯山氏は士族の出、と言う事が判りました。
幕末の元治元年に書かれた
唐津藩・小笠原家の家臣の記録に
6代前の興四郎(よしろうの)名がありました。
記録の役職名から紐解くと土木関係の仕事を与えられて城の塀や石垣の修繕を任されていたそうです。
しかし時は明治時代となると武士の時代は終わり
興四郎さんは職を失いました。
【高祖父】小源太(牟田部炭鉱の作業員を監督)
4代前の高祖父は当時景気に湧いた
牟田部炭鉱の作業員を監督する仕事に就きました。
この地は凡そ3分の1が炭鉱の職に就いていたそうです。
曽祖父・清太郎
明治22年生まれの曽祖父・清太郎さんは
激動の人生を歩みました。
成績は優秀で明治34年、
旧制佐賀県立唐津中学校に進学しました。
18歳になると父と同じ
長崎県・西海市崎戸町の崎戸炭鉱
の仕事に就きました。
しかし仕事に馴染めず
読書ばかりしていて
徳富蘆花(とくとみろか)の
「自然と人生」にに出会いました。
炭鉱の仕事を辞め上京し、徳富蘆花の弟子を目指しました。
徳富蘆花は弟子はとらない主義でしたが、熱意を買われ門下生に!
清太郎さんは徳富蘆花の門下生の傍ら
大正元年早稲田大学文学科英文科に入学しました。
同期生は、細田民樹、保高徳蔵、鷲尾雨江、
西条八十、細田源吉、青野季吉、
(あの直木賞の)直木三十五、
生田蝶介、国枝史郎、嶋中雄策、広津和郎、谷崎精二らと錚々たるメンバー達でした。
結婚
曽祖父・清太郎さんは大正2年24歳の時、
将来、神田伯山の曾祖母になる
地元が同じ7歳の福岡シズヨと同棲を始めました。
父親・福岡庄太郎が事業に失敗、失踪し、清太郎さんを頼って来たそうです。
福岡シズヨさんの父親・福岡庄太郎さんは実は海外に失踪し、たどり着いたパラグアイで柔術家として成功し、英雄となっていたのでした!
長くなるので詳しくは別ページに投稿しました!
やがて成績優秀で大学を卒業しますが同級生の
詩人、作詞家、仏文学者の西條 八十(さいじょう やそに)一度も勝てなく成績は2位で卒業したそうです。
清太郎さんは卒業後も定職につがず、作家を目指し執筆活動を続けていました。
そんな中、大正4年長女・光子さんが誕生しました。
シズヨさんは乳飲み子を抱えながらもおでんの屋台のほか、いくつもの副業もこなし、一家をささえました。
そのおでん屋は有名になり新聞に取り上げられる程だったそうです。
就職
いつ迄もシズヨさんに苦労をかけるわけにもいかず、清太郎さんは、わんや書店に就職しました。
幕末・明治期より100年以上続く書店で
謡本や教本、能楽書籍など
を刊行・発売している能楽専門の出版社です。
出版社が多い東京・神田神保町に現存します。
そして、大正7年には神田伯山さんの祖父にあたる長男の融(とおる)さんが誕生しました。
同年清太郎さんは、
わんや書店の社長らと現在も
宗教・哲学・思想・心理・文学・音楽の
各部門の専門書の刊行を行う
春秋社を立ち上げました。
そこでトルストイ全集を出版しまし
自ら翻訳を務めました。
最終的に9000部まで重版を重ねました。
他にも思想に関して「世界中大思想全集」が話題となりました。
今「ファミリーヒストリー」で「世界中大思想全集」が話題に出て、どっかで見たなぁと思ったら実家だった
祖父の書棚にあった本だ pic.twitter.com/RVOO1YbhZP— pianopiano (@kkt_annex) April 27, 2020
生活も安定し、荻窪に自宅を構えました。
しかし昭和11年、経営方針をめぐり社長と衝突し退社。
自ら処女小説「国境」を出版するも売れず・・・。
【祖父】融(講道館柔道三段)
祖父・融は柔道部日大でも活躍していました。
嘉納治五郎の講道館・柔道三段で
道場破りによく行ったとか!!
東京日本橋の三越に就職し、
数年後太平洋戦争が勃発しましたが
肋膜炎で兵役に就けませんでした。
昭和23年、祖母となる、伊勢丹に務める大木瑩子さんと結婚しました。
結婚後は三越を退社し、高収入が見込まれるタクシー運転手に転職しました。
そして二人の子供が生まれました。
長男・猛、
そして将来の神田伯山の父と鳴る次男・豊は中学では柔道で地域の大会で優勝するほどの猛者でした。
そんな中、安定した生活は続かず、波乱が待ち受けていました。
融さんは、個人タクシーの資格も取得し
個人タクシーを始めましたが
奥さんの瑩子さんが
昭和41年、46歳の若さでこの世を去りました。
更に翌年、融さんは網膜剥離と診断されました。、
悪いことに手術中に停電となり、手術が中止し、後遺症で片方の目の視力を失うことになってしまいました。
その結果、個人タクシーの職も失うことになりました。
祖父(母親方)・順一郎方
母親(ミエ子)方の祖父・順一郎さんは、
日本陸軍の鉄道連隊に所属していました。
昭和14年復員
昭和15年東京市電気局に入局し
花形である市電の運転手となったそうで、
陸軍時代の鉄道の知識と経験が生かされた様ですね!
昭和21年に結婚し
昭和25年次女で将来さんの母親となるミエ子さんが誕生しました。
ミエ子さんは専門学校を卒業すると
貿易会社に就職し
古舘豊さんと出会い結婚しました。
豊さんは、昭和58年ブラジル支社に転勤することになりました。
ミエ子さんは、二人目の子を身ごもっていたので単身の転勤でした。
ブラジル南部で人口30万人のペロタスが赴任先でした。
豊さんは、柔道の猛者である事から仕事の傍ら柔道を教えていました。
その弟子の中には
ブラジルのオリンピックの代表選手候補にもなったジョゼー・フェルナンド・マドゥエウさんもいました。
弟子のジョゼーが今も覚えている言葉は
楽なことは一つもなく、身をささげて尽くす。
で、今でもジョゼーさんによってそのお弟子さんに継承されています!
【父】豊
豊さんは高校卒業後
大学の学費を稼ぐために浪人し、
翌年45年立教大学に進学しました。
それだけでなく弟の悟さんの学費まで払っていました。
豊さんは、昭和51年貿易会社に就職しました。
そこで2歳年上の石塚ミエ子さんと出会い
昭和54年結婚、豊さん27歳、ミエ子さん29歳の時でした。
ミエ子さんの実家は現在の埼玉県幸手市で
大規模な新田開発を行ったそうです。
3600坪もの巨大な土地を持っていました。
神田伯山、古館克彦誕生
昭和58年豊さんの次男である克彦さんが誕生しました。
豊さんが好きな柔道の選手、柏崎克彦選手の名前からとったそうです。
柏崎克彦選は、幻のモスクワオリンピックの柔道代表で、寝技の柏崎の異名をとった伝説の柔道家だったそうです。
克彦さんは1歳の時にブラジルに渡り
家族で暮らしましたが
昭和61年日本に帰国しました。
豊さんは、帰国後
平成6年、42歳の若さで自らの命を絶ちました。
※神田松之丞時代のブログに綴っています
小学校4年生で父親を失い明るかった性格は一変したそうです。
やがて中高一貫の男子校
聖学院高等学校に進学しました。
目立たない性格になった克彦さんが
楽しみに受けていた授業が
歌人でもある森本平先生の国語の授業でした。
先生の詩は今でいうとコンプライアンス的にヤバい詠でしたが
授業は先生にとってステージで
観客である生徒との真剣勝負でした。
そんな森本平先生の授業で明るさを取り戻し、趣味として落語を聞くようになりました。
なかでも、立川談志に衝撃を受けたそうです。
将来は落語の世界を目指すことを考えていましたが
落語、講釈、浪曲などからどの道に進むか?
を決めかねていました。
そんな中、選んだのが講談で
講談師・神田松鯉(しょうり)の門を叩きました。
そして、神田松之丞を拝命し、
現在は六代目神田伯山として
「日本一チケットの取れない講談師」と呼ばれる程の
人気講談師として活躍しています。
まとめ
高祖父が柔術家
父親と祖父が柔道の猛者で
南米で尊敬される格闘家だったなんて凄いルーツですね!
神田伯山さんも面構えが格闘家っぽくってお客さんとの真剣勝負という点では、あるいみ講談も格闘技だと思うようになりました。
同じ古館姓で出身地が同じ古舘伊知郎さんのファミリーヒストリーの内容はコチラ
鶴田真由さんの先祖は新選組の森常吉?
については、コチラにまとめました。
是非、ご覧ください。
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