ファミリーヒストリー 鶴見辰吾の父親方祖先は武田信玄の家臣~松本城城主・沼津藩水野家に仕えた徳川家の旗本!
今回は、ファミリーヒストリーは俳優の鶴見辰吾さんのルーツを探る「鶴見辰吾~父方と母方 維新後のニアミス~」のレビューです。
子役でデビューし、社会現象ともなった3年B組金八先生では杉田かおるさんが演じた15歳で妊娠・出産する少女の恋人役としての演技で注目を浴びました。
その後はキャリアを積み、渋い役柄を演じながらも、「チコちゃんに叱られる」では再現ドラマ「たぶんこうだったんじゃないか劇場」で真面目にコミカルに何役もこなす一人芝居も人気で、杉田かおるさんからは「鶴見辰吾さんの代表作!」といじられています(笑)
そんな鶴見辰吾さんの先祖は、武士!
しかも、母方が三河岡崎藩初代藩主で岡崎城城主・本多康重の家系
父方が武田信玄に使え、信玄亡き後は、徳川家に使えた松本城主・水野家の家臣で徳川家の旗本!という幕末を代表する武家の家柄だという事が判りました!
しかし、大政奉還から明治維新などで生活は一変してしまいました・・・。
今回は、ファミリーヒストリーで紹介された鶴見辰吾さんのルーツについてお伝えします!
※鶴見辰吾さんの母親方のルーツに関しては、別ページに投稿しました。
なお、再放送は、7月23日(木)23:30~0:42の予定です。
鶴見辰吾さんのルーツは武士の家系
デビューから43年を迎えた鶴見辰吾さんは、親戚と交流が無いため、鶴見家のルーツを知らなかったそうで、今回はとても楽しみにしていたそうです。
そこで戸籍上で確認出来る範囲で判明したのが父親方、母親方ともに江戸時代の武士であった事でした。
大政奉還~明治維新で武士という身分は無くなりましたが・・・
母親方の祖先は印刷機械の制作で莫大な資産家
父親方の祖先は電気設備会社で成功し鶴見辰吾さんの幼少期は裕福な家庭だった・・・
と、言うことが判りました。
それだけでなく、鶴見辰吾さんが俳優になるキッカケは、母親型の祖父の存在だったそうですよ!
武家の出身ということが判明
鶴見辰吾さんは子供の頃、父親・剋之(かつゆき)さんから鶴見家の先祖は武田信玄の家来だった、という話をよく聞かされていたそうです。
※剋之さんは放送直前の7月3日86歳で無くなったそうです。
鶴見辰吾さんの戸籍上で最も古い祖先は、幕末の安政元年(1854年)生まれの曽祖父・應(まさ)さんです。
武士の時代は終わり明治になると、牛込区牛込天神町(現在の新宿区天神町)に住み家具職人として暮らしていたそうです。
應(まさ)さんには、9人の子供がいて、その末っ子が鶴見辰吾さんの祖父・博(ひろし)さんだったそうです。
祖父・博-父・剋之(かつゆき)-鶴見辰吾
その博さんの長男は武さん、次男・榮一さん、そして三男が鶴見辰吾さんの父親となる剋之さんです。
親族から情報収集
ここでファミリーヒストリースタッフは親族から情報収集を開始しました。
■ 祖父・博さんの兄・五郎さんのご子息からの情報
祖父・博さんの兄・五郎さんのご子息によると
浅草・敬覚寺(きょうがくじ)に鶴見家の墓があったそうです。
敬覚寺のご住職によると、4男・應辰(まさとき)さんのご子息がその墓を守り続けているそうです。
そのご子息の家に家系図が残されており、鶴見家は、30代続く歴史ある家である事がわかりました。
その家系図では、鶴見則宗氏が武田信玄に仕えていましたが、武田家滅亡後、信濃国松本藩主で、松本城城主で沼津藩の水野家、水野忠清家に鶴見一右エ門が仕えていた事がわかりました。
やはり鶴見辰吾さんが子供の頃、祖先が武田信玄の家来だったと父親から聞かされていた話は本当だった様ですね!
水野家の家臣図によると、鶴見一右エ門は、中階級くらいの身分だった事が判明しました。
水野家の運命を変えた事件
水野家は、7万石の大名でしたが、ある大事件が起こり、鶴見家にとっても一大事となりました。
亨保10年(1725年)水野家6代目当主・水野 忠恒(みずの ただつね)が征夷大将軍徳川吉宗に謁見した後、江戸城「松の廊下」で、長門長府藩・毛利師就に斬りつける事件が起きました。
そう、奇しくもその25年前「忠臣蔵」「赤穂浪士」などで知られる播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭が吉良上野介を刺した場所です。
この沙汰により水野 忠恒は職を解かれ、叔父の水野忠穀の浜町の屋敷にて隠居し、そこで没しました。
松本藩の領地は没収されましたが、水野家は徳川家康の母於大の方の生家であることから家名存続を願う声が強く、分家の若年寄水野忠定の取り成しにより、忠恒の叔父の水野忠穀(ただよし)に信濃国佐久郡7000石(高野町知行所)が与えられて旗本として水野家は名を残すことが出来ました。
リストラ
水野家は、7万石の大名から7000石の旗本に格下げとなってしまいました。
その為、2000人居た家臣を今で言うリストラする必要が出てきました。
水野家は、残す家臣を決めるためにとった奇策がありました。
それは家臣の名前を紙に書いて、それを落として地面に描いた輪の中に落ちれば家臣として残れ、輪からはみ出すとリストラ!
という信じられない奇策でした!
鶴見家は、その奇策でもは無事に名前が書かれた紙が、輪の中に落ちたので無事水野家の家臣として残る事が出来たそうです。
でも鶴見辰吾さんは、寧ろ感心していました。
なぜなら映画やドラマのオーディションは2000人どころか、それ以上の中から一人選ばれる・・・という俳優のオーディションと運命と同じだと共感していたみたいです!
その後、安永6年(1777年)水野忠友は、沼津藩主に返り咲き老中まで上り詰めました。
その沼津藩に使えたいた鶴見辰吾さんの先祖は、鶴見金太夫、鶴見小源太という人でした。
藩の中で藩主の近くにいて重要なポストに就いていたと考えられているそうです。
5万石の沼津藩なのにそれぞれ、50石を与えられていたので家臣としては決して低い身分ではなかった事が残された沼津藩の記録から判明しました、
武士の家系だった事は父親から武田家につかえていた事などを聞かされていたそうです。
曽祖父・應(まさ)
1855年(安政元年)鶴見作之介(應)が誕生しました。
幕末、沼津藩は、元々幕府側でした。
それが劣勢になると新政府軍側に鞍替えしてしまいました。
しかし、明治維新で、徳川家1万3千人が移り住んで来ました。
水野家はやむなく沼津を出ていく羽目になりました。
水野家は、上総の菊間(現・千葉県市原市)に国替えすることになったそうです。
徳川家によって沼津を追い出された形です。
※菊間では、僅か150坪の土地だったそうです。
廃藩置県で身分を失い家具職人に
明治4年(1871年)廃藩置県により菊間藩は廃藩となってしまいました。
藩主を失い、収入が絶たれた鶴見家は、家具職人の道を選びました。
その中で鶴見應さんは、東京の新宿区天神町にて家具職人となったそうです。
そして結婚すると後に鶴見辰吾さんの祖父となる博さんを含む9人の子どもたちに恵まれました。
名前が判明しているのは・・・
龍太郎さん
五郎さん
應男さん
應辰さん
博さん
鶴見應さんは、子どもたちに「手に職をつけろ」と良く言っていたそうです。
應さんの教えの通り・・・
3男・應男(まさお)さんは、家具で成功
4男・應辰(まさとき)さんは、現・東京芸大の出身で木彫りを学び木工業で成功しました。
そして、9男(祖父)博(ひろし)さんは、画家になる事を夢見た。
鶴見辰吾さんの祖父・博(ひろし)さん
博さんは29歳で結婚し、横浜に住み3人の子供をもうけました。
絵画だけでは生活出来ず副業で、友禅染の絵柄を描く職人もやっていたそうですよ。
横浜市の美術展でも「春光」「早春」が高い評価を受けて新聞でも報道された様です。
しかし昭和23年(1948年)肝臓がんで49歳に他界したそうです。
疎開で千葉県の成田市に残された家族は、東京都世田谷区の博さんの兄・應辰(まさとき)を頼って上京したそうです。
その應辰さんは家具で財を成したそうです。
鶴見辰吾さんの父・剋之
三男剋之(かつゆき)剋之さんは應辰さんの援助で早稲田大学を卒業しました。
石油製品の会社に就職しましたが、長男・武、次男・榮一さんが起した電気設備会社を手伝う事になりました。
そんなある日友人から本多博子さん、将来の鶴見辰吾さんのお母さんとなる女性を紹介されたそうです。
※鶴見辰吾さんの母親方のルーツと父剋之さんと結婚後のエピソードに関しては、別ページに投稿しました。
・鶴見辰吾さんの母親方のルーツは三河岡崎藩初代藩主で岡崎城城主・本多康重の家系!
・鶴見辰吾さんの父親方水野家と母親方の本多家の先祖が静岡でニアミス?
・明治維新後は、印刷機械の制作で財を成した!
・鶴見辰吾さんが俳優になったのは、母親方の無職の祖父の影響!?
などをまとめています!
ファミリーヒストリーの動画
今回ファミリーヒストリー ・鶴見辰吾を見逃した方は動画を7月09日 23:59まで配信で観ることが可能ですよ♪
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