ファミリーヒストリー!神田伯山の高祖父・福岡庄太郎は柔術家でパラグアイの英雄に!

6月 29, 2020

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チケットが取れない講談師・神田伯山さんの高祖父・福岡庄太郎さんはパラグアイで成功し英雄となった柔術家だった!

NHKの「ファミリーヒストリー」では先祖の内、高祖父が柔術家で、祖父の融が講道館柔道三段という格闘一族だったという真実が突き止められました!

格闘技を観るのが好きなのですが、
神田伯山さんの高祖父の
福岡庄太郎さんが柔術家で
しかもあのブラジリアン柔術の父で
グレイシー柔術の祖となった
コンデ・コマこと前田光世と一緒に柔術を広めた!!

というこれだけのエピソードでお腹いっぱいになりました!

4月30日の深夜に再放送もありますが
見逃した方の為に、どんな内容だったか?をまとめました。

また番組では時間の尺もあって、
さらっとアルゼンチンで成功した柔術家とだけ
紹介されていましたが、番組で紹介しきれなかった福岡庄太郎さんのエピソードを詳しく解説しますね!

※5月4日までU-NEXTの見逃し動画配信も有りますよ♪

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神田伯山の高祖父福岡庄太郎は柔術家

福岡庄太郎
福岡庄太郎

先ずは神田伯山さんの父親方の家系図の紹介です。

神田伯山の家系図
神田伯山の家系図
父親方古舘家家系図
【6代前】興四郎(唐津藩・小笠原家の家臣)
【5代前】篤敬
【高祖父】小源太(牟田部炭鉱の作業員を監督)
高祖父福岡家)】庄太郎(格闘家・柔術)
曽祖母福岡家)】シズヨ
【曽祖父】清太郎
祖父(講道館柔道三段)
【祖母】(大木)瑩子
【父】豊

神田伯山さんの本名は
古舘克彦でフリーアナウンサーの
古舘伊知郎さんと祖先が同じ
佐賀県唐津市の名護屋(なごや)地帯の
古館」という地域の出身で、
地名からとった名字という事が判りました。

古舘伊知郎さんのファミリーヒストリーの内容はコチラにまとめています。

今回紹介する柔術家の神田伯山さんの高祖父は父親方の5代前の祖先です。

神田伯山さんの家系について詳しくは別ページに投稿したのでご参照下さい。

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神田伯山の高祖父福岡庄太郎

神田伯山の曾祖母福岡シズヨの父(高祖父)
福岡庄太郎はシズヨさんが6歳の時に
海外に失踪しました。

福岡シズヨさんは佐賀に住んでいた頃の
幼馴染である出版社春秋社の創立メンバーの
神田伯山の曽祖父・清太郎を頼り上京し
後に結婚しました。

その福岡シズヨさんの父で、
後に神田伯山さんの高祖父となる福岡庄太郎は
パラグアイでは、警察に柔術を教えて成功していました。

失踪の原因は?

福岡家は、唐津藩の頃から鉄砲火薬問屋を営み
鉄砲火薬問屋の経営は順調でした。

福岡庄太郎さんは20歳で結婚し、シズヨさんが誕生しました。

しかし、1902年、シズヨさんが6歳の時に
単身貨物船に乗り込み、
海外(アメリカ)へ失踪してしまったそうです。

失踪の原因は不明ですが

問屋火薬か鉄砲かの事故が原因で
責任を感じ海外へ失踪したのでは?

と考えられています。

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柔術で成功しパラグアイに柔術を広めた!

福岡庄太郎さんは世界各国を行脚し、
今で言う総合格闘技(MMA)の試合に柔術の選手として出場し、生活の糧にしていました。

福岡庄太郎さんは
唐津藩に伝わっていた柔術を学んだ可能性があることが判明しました。

元々柔術は戦国時代から刀が届かない間合いの白兵戦で乱戦になったときに相手を倒し、マウントをとり小刀で刺し敵のとどめを刺すという戦術があり、唐津藩に伝わっていた事も不思議ではありません。

また、柔術の試合で訪れたアルゼンチン、パラグアイに永住した事も分かりました。

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講道館柔道もアメリカ大陸で普及が始まった

この頃、柔術と同じく講道館により柔道の普及がアメリカ、中南米で始まりました。

福岡庄太郎さんが拠点としたアルゼンチンは当時
後の日露戦争の日本海海戦で活躍する
装甲巡洋艦春日「元・アルゼンチン海軍リバダビア」、
日進「元・アルゼンチン海軍モレーノ」
を売り渡した程の交流があった国でした。

日本海軍とアルゼンチン海軍とも交流が盛んで
日露戦争で日本が勝利したこともアルゼンチンにまで伝わっていました。

1906年にアルゼンチン海軍練習艦の
サルミエント号が横浜に入港した際
甲板で柔道のエキシビションが行われました。

このエキシビションを見た艦長ディアスは

小国日本が大国ロシアを日露戦争で破った根本は柔道にある

と断言したそうです!

講道館(当時は嘉納塾)の
緒方義雄と渡辺孝徳は
海軍省の柔道指南役としてそのまま
アルゼンチンに向かい、
首都ブエノスアイレスを拠点とし
警察や,ヒムナシアクラブという
地元のスポーツクラブで
柔道を教授した記録も残っています。

この頃すでに、講道館の前田光世も
柔道の普及のため
アメリカ大陸で試合のため各地を転戦していました。

前田光世は、
後にブラジルに渡り、
グレイシー一族に伝わる
グレイシー柔術の祖となり
生涯で2000戦勝以上を得て、
「人類史上最強の男」と呼ばれ
ブラジリアン柔術の父と称され
コンデコマと呼ばれていました。

前田光世と意気投合

福岡庄太郎さんは
1902年(明治35年)には、
ニューヨークへ行きサーカスの見世物で柔術の演武を行っていた事も判りました。

ここで前田光世と知り合い、意気投合し全米各地を一緒に転戦するようになったそうです。

さらに欧州にもサーカスと共に渡ったそうです。

このエピソードは増田俊也氏の小説「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で描かれています。

コンデ・コマ(前田光世)と福岡庄太郎
コンデ・コマ(前田光世)と福岡庄太郎
福岡庄太郎さんは身長180センチと
当時の日本人としては大柄で
後ろに前田光世氏が椅子に座っているのは
身体を大きく見せる為だそうです。

その後も福岡庄太郎さんは北米に戻り全米で柔術を披露し、
1906年(明治39年)1月、欧州で知り合った
柔道指南役の角田利太郎
と共に中米を経てアルゼンチンアルゼンチン、
サンタ・フェ州の州都ロサリオに拠点を移しました。

試合の為のアルゼンチン入国に関しては
カジノの興行と書かれていたそうで
賭博対象の試合もあったと思われます。

タイのムエタイの賭けの様な意味合いでしょうか?

異種格闘技戦に挑戦

神田伯山さんは名前を広めるために
異種格闘技戦合を行いました。

フランクブラウンというレスラーと戦ったことがわかりましたが、勝敗は不明です。

その戦いから尊敬を集め、誰からも尊敬される職業の
警察の騎馬警官を准尉待遇で任されることになりました。

柔術の指導者として活躍

福岡庄太郎さんが騎馬警官に採用されたのは
警察が柔術を、捕縛術、護身術として警察官に指導するためと考えられています。

騎馬警官となった福岡庄太郎
騎馬警官となった福岡庄太郎

柔術がロシアに渡り
護身術サンボとなり、
コマンドサンボとして
警察や軍隊で採用された事を考えると理にかなっていますね!

警察官として採用されると
サンタフェ州の警察官を養成する警察学校
(Escuela de Cadetes de Policia de la Provincia de Santa Fe)
で柔術を指導する事になりました。

また、並行してロサリオ市内
で柔術の道場とマッサージ屋を開業しました。

それだけなくロサリオ市内で
最大規模のスポーツクラブ
スポルティーバ・ロサリーナ
(La Sportiva Rosarina)に加入し
柔術を教えるだけなく、
水泳の選手兼指導者、
体操の指導者としても活躍したそうです。

またスポーツクラブの主催する公演活動では
ボクシングやフェンシングと共に柔術も披露したそうです。

スポーツクラブの主催者である
アロスピデガレイ氏は柔術を護身術として高く評価していたそうです。

単なる自衛の技術という狭義の意味ではなく
自己鍛錬を通じた身体能力の向上や、
相手を傷付けることなく、
可能な限り武力を用いず相手を制するという能力などを評価していたそうです。

また

「ほとんど知られていない、しかし護身術として大変有用であるこの日本のレスリングを習慣付けた一人の指導員を祝わなければならない」
と福岡庄太郎氏に賞賛を送っています。

療養生活

しかし福岡庄太郎さんは肺結核で倒れ、療養生活を行うことになりました。

静養の為、拠点をパラグアイの首都アスンシオンに移しました。

やがて体調が復調すると、体重110キロの
レスラーのマッカランと異種格闘技戦を行うことになりました。

1916年(大正5年)10月14日、パラグアイ国立劇場で対戦が行われました。

結果は、4ラウンドでフォール負け!

しかし観客は何度投げられても果敢に挑む
庄太郎の柔術に魅了され
マッカランに罵声が
浴びせられるほどだったそうです。

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日本へ帰郷

庄太郎さんはパラグアイでは
1931年までは花屋を営みながら柔術の道場を開きました。

そんな中、1916年、39歳でドイツ系移民の女性マリア・ファナ・ヒメネスと結婚し5人の子供に恵まれました。

福岡庄太郎のパラグアイでの5人の子供たち
福岡庄太郎の
パラグアイでの
5人の子供たち

1918年、 長女・ヨシが誕生
1920年、 長男・タケシが誕生しました。

この頃、柔道の海外進出が本格化し
講道館の前田光世(コンデ・コマ)が
ブラジルのアマゾン河口の町ベレンに拠点にし柔道の普及を開始しました。

1922年、 次女・トシが誕生
1924年、 三女・チヨが誕生します。
1925年、 四女・ハナが誕生しました。

そして、1939年(昭和15年)4月10日、パラグアイ経済使節団の一員として帰国を果たしました。

皇紀2600年祭に出席し、
海外発展功労者として
松岡外務大臣により表彰さました。

そして、後ろめたさもありましたが、娘のシズヨさんと再会を果たしました。

シズヨさんは、父庄太郎さんと写った写真を大切に保管しており、その写真も現存しており、再開を喜ぶメモが写真の裏にうっすらと残っていました。

庄太郎さんはシズヨさんと再開の後、パラグアイに帰国し、
1946年(昭和22年)10月16日、69歳で波乱の人生を閉じました。

その逝去については11月11日地元の新聞に追悼記事が掲載されるほどでした。

遠い昔、格闘技の試合を福岡庄太郎は
模範とすべき英雄的な粘り強さで戦った。

彼は、我が国のスポーツ界にとって
常に称賛に値する好漢だった。

まとめ

福岡庄太郎については柔道家の木村政彦についての書籍
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著)にも名前が登場しています。

木村政彦はグレイシー柔術のエリオグレイシーと
1951年10月23日にブラジル・リオデジャネイロの
マラカナン・スタジアムで対戦し
2R開始3分で大外刈からの腕がらみでTKO勝ちし
後にこの技はキムラロックと呼ばれるようになりました。

『福岡庄太郎は〜まさに歴史に埋もれた”もう一人の前田光世”古流柔術のコンデ・コマ”である』 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」増田俊也 より

今回は自分を含め、格闘技好きには堪らないエピソードでしたね!

まさかファミリーヒストリーでコンデ・コマが語られるとは!
鶴田真由さんの先祖は新選組の森常吉?

については、コチラにまとめました。

是非、ご覧ください。