ファミリーヒストリー 鶴田真由の先祖は新選組の森常吉?見逃し動画配信やネタバレと感想

6月 29, 2020

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ファミリーヒストリー「鶴田真由~先祖は新選組か 謎の写真~」で、鶴田真由の先祖は新選組の森常吉という事が明かされそうです!

予告にそれらしき新選組大志の写真がチラッと出たので
お!!森常吉(もり つねきち)!?
と思わず叫んでしまいました(笑)

単に森常吉の写真が使われただけで
別な大志かもしれませんが・・・

● 元桑名藩士
● 主君を守るため新選組に入隊
● 最後は切腹

という点が合致してるんですよ。

この投稿では

■ 母方の先祖、新選組森常吉(森弥一左衛門陳明)について

■ 父親方の先祖は大分別府の網元から温泉旅館で成功

について重点的にネタバレしますね。

まぁ名前からして旅館は鶴田旅館~ホテルニューツルタとして地元では有名なのですが、公共放送として旅館の名は出せないと思いますので・・・(笑)

あと、再放送や動画をお求めの方には、見逃し動画配信をオススメしますね~。

動画をお探しの方は7月09日 23:59まで見逃し配信で観ることが可能ですよ♪

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母方の先祖は新選組隊士の森常吉?

女優・鶴田真由さんの先祖は予告の写真から新選組隊士の森常吉と思われます。

歴史好き界隈もSNSですでにざわついています。

では、森常吉ってどんな人だったのでしょうか?

森常吉とは?

後に森常吉を名乗ることになる
森弥一左衛門陳明は
文政九年(1826)に
江戸の八丁堀の桑名藩邸で
小河内家の嫡男として生を受けました。

しかし伯父の森陳功に嫡子が無かった為
養子になり森家の家督を継ぐことになったそうです。

やがて成長すると桑名藩の重臣として頭角を現し
京都の監視と治安維持が目的の
京都所司代として伊勢国桑名藩藩主・
松平定敬が就任した際、主席公用人となって尽くすことになりました。

この頃、新選組の土方歳三と知り合ったそうです。

しかし、時代は幕末で、倒幕派が勢いづき
主君松平容保、松平定敬兄弟には
誅伐の宣旨が出され
ついに朝敵とされていました。

戊辰戦争の始まりの
鳥羽伏見の戦いでの幕府軍大敗の後、
徳川慶喜の警護の為、彰義隊として上野戦争に参加しました。

その後、会津戦争で幕府軍が敗れると
榎本武揚率いる幕府海軍の船で
蝦夷地(北海道)に向かう為
仙台の港で藩主の藩主・松平定敬と藩士を乗船できるよう榎本武揚と交渉に出ました。

しかし松平定敬は即決で乗船許可はでましたが、
藩士は3名までと条件を突きつけられました。

そこで旧知の間柄である土方歳三に相談したところ、新選組に入隊すれば新選組の枠で乗船許可をとってやる、と提案を受けました。

その結果、歳をとって交戦できない藩士を除く16人が森弥一左衛門と共に新選組に入隊する事になりました。

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新選組へ!

これをきっかけに森弥一左衛門は、
森常吉の名を名乗るようになったそうです。

桑名藩藩士の名森弥一左衛門
新選組の隊士名森常吉

こうして1868年(慶応四年・明治元年)9月17日
主君・松平定敬の護衛として 太江丸に乗船し、蝦夷地を目指しました。

蝦夷地鷲ノ木浜上陸後、五稜郭を目指しました。

道中、七重村(現北海道亀田郡七飯町)の峠下で倒幕派の待ち伏せに会い、負傷してしまいました。

1869(明治2)年には箱館に於ける
新選組の頭取改役に任命され、
事実上の新選組(箱館新選組)組長となりました。

新選組は弁天台場を本営として箱館山周辺の守備に就くことになりました。

しかし、5月11日の新政府軍の総攻撃により
一本木関門(現・函館市若松町)付近で土方歳三戦死。

新選組は、弁天台場に籠城するも食料や飲水が尽き15日に降伏しました。

森常吉隊長の職を相馬主計に託し相馬主計は、残務処理にあたりました。

5月18日には、榎本武揚が降伏し、五稜郭は新政府に明け渡され戊辰戦争は終結しました。

戊辰戦争結後に、旧桑名藩士らは
5月22日青森に移送されて
津軽藩預かりとして弘前で謹慎生活を送りました。
(明誓寺、弘前薬王院、青森蓮花寺など)

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辞世の句

明治2年9月27日に常吉は軍務局から取調を受け、一人東京に送られ二ヶ月東京軍務局に入牢することになりました。

この時、主君を罪人にしない為、罪を全て背負うことを誓い詠んだ辞世の句があります。

うれしさよ つくす心の あらわれて
君にかわれる 死出の旅立

なかなかに おしき命に ありなから
君のためには なにいとふべき

取調では、自分の命と引き換えに松平定敬の無罪と藩の存続を嘆願したと言われています。

切腹

明治2年11月13日(1869/12/15)
深川入船町桑名藩下屋敷に移され、
藩の藩抗戦派の戦争責任者として
ただ一人切腹を命ぜられました。

この時の名はすでに森常吉でなく
桑名藩士森弥一左衛門陳明として刑に臨んだそうです。

享年44歳。

江東区白河、霊巌寺にお墓があります。

森陳明の名です。

森家は断絶され、子孫はは若槻、三木を名乗ったそうです。

そして森陳明の名の息子・吉村三木太郎が鶴田真由さんの母の祖父となったそうです。

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父方のルーツは温泉旅館で成功

父方の鶴田家のルーツは大分の温泉地別府北浜です。

明治の初め、4代前・高祖父道造が、ある理由で武士の家を出ました。

その後、別府北浜の網元となりました。

その頃、北浜に観光港ができ、主に四国、
さらには関西や中国地方からも船を利用した行商や湯治客が増えてきたそうです。

そこで高祖父は半漁半宿というかたちで、
行商や湯治客向けの宿泊も始めました。

そして祖父・勘一は網元をやめ、宿一本に絞ったそうです。

それだけなく、明治時代も終盤の
1900年代に入ると
温泉を掘る技術「上総掘り」
が開発されて、
一気に源泉の汲み上げが広がり、
温泉が商用で利用され始めていったそうですよ!

こうして別府北浜エリアの宿が整備されてきたそうですね~。

そして第1次世界大戦後の1918(大正7)年に木造3階建ての温泉旅館「鶴田旅館」として創業した!との事です。

この頃は、勘一さんの妻・栄子さんが経営に辣腕をふるったそうです。

その後、1945年第2次世界大戦での敗戦により米国進駐軍から接収を受けたそうです。
3年後の1948(昭和23)年に接収解除され
屋号を鶴田ホテルに変更しました。

東京出身で大分に疎開し教師をしていた祖母・鶴田衣代が19歳で嫁いで鶴田ホテルを支えたそうです。

※松平親義(大分の杵築藩第12代の藩主貴族議員)と輝子(伊予松山藩久松家)の長女

その後、別館の増築などを行い拡大し
1968(昭和43)年、鉄筋コンクリート8階建てホテル竣工し
屋号を現在のホテルニューツルタに変更し、現在に至るそうです。

ファミリーヒストリーの動画

今回ファミリーヒストリー ・柳葉敏郎見逃した方は動画を7月09日 23:59まで配信で観ることが可能ですよ♪

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■ 柳葉敏郎