歴史秘話ヒストリア 松下むめの 武勇伝!まとめ&見逃し動画配信
NHK歴史秘話ヒストリア「だからあなたと歩きたい愛新覚羅溥傑・浩 松下幸之助むめの」では、激動の昭和を生き抜いた2組の夫婦の物語の秘話が語られます。
紹介される秘話は以下の二組の夫婦で、妻にスポットが当てられます。
松下電器松下幸之助の妻むめの
満州国皇帝ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の弟・愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)の妻・愛新覚羅溥浩(ひろ)旧姓・嵯峨浩
この投稿では、松下幸むめさんがどんな妻だったか?と放送内容のまとめ、そして見逃した方に見逃し動画配信のお知らせを紹介します。
だからあなたと歩きたい松下幸之助むめの 放送内容
松下電器の松下幸之助・むめの夫妻は、世界恐慌、戦後の公職追放など、何度も窮地に立たされながらも、世界的大企業を築いた夫婦です。
二人三脚で小さな町工場を世界的大企業にしたのは妻・むめのさんの内助の功により松下幸之助氏が仕事に集中出来る環境を提供し続けた事にあったと言っても過言ではありません。
今、改めて問われる、人と人の絆が今回の方法のテーマです。
松下むめのさんのプロフィール
松下むめの(まつした むめの)さんは
1896年(明治29年)3月3日兵庫県淡路島浦村(現在の東浦町)にて、淡路島の船乗り井植清太郎・こまつの間に次女として生まれました。
弟に、長男・井植歳男氏(三洋電機(株)創業者)、次男・祐郎氏(同社二代目社長)、三男・薫氏(同社三代目社長)がいます。
井植むめのさんは浦高等小学校卒業後、大阪・船場の旧家に奉公に出ました。
1915年(大正4年)、19歳になると松下幸之助氏とお見合い結婚しました。
ここから松下幸之助氏を影から支える人生が始まりました。
大正7年(1918)、松下幸之助氏が松下電気器具製作所(現在のパナソニックグループの前身)を大阪市北区(現在は福島区)大開町1丁目の借家で創立しました。
むめのさんは、経理事務を一手に引き受ける一方、住み込み従業員の食事や風呂の世話などして事業を支え、礼儀など基本的な人間教育にも力を入れ「社員の母」と慕われれていたそうです。
昭和8年(1933)、本店・工場が現在の門真市に移ったのを機に、「潮時かもしれん」と第一線から退きました。
その後、幹部社員の妻を対象とし「主人に後れをとらない妻を育てる」事を目的とした懇親会「みどり会」を結成し会長に就任、側面から経営を支援しました。
この間、夫妻は二人の子どもを授かります。
長女・幸子と長男・幸一を出産しますが
た幸一が脳症を起こし、
たった7ヵ月の短い人生を終えてしまったのです。
武勇伝
1917年(大正6年)独立し、改良ソケットの製造販売に着手しました。
しかし、ソケット本体の材料に使われる絶縁体であるプラスチック状の「煉物」の製法は、どこの工場でも秘密とされていた為、松下幸之助氏も作り方を知らないという状況でした。
そこで、むめのさんは、近くの煉物工場のゴミ捨て場をあさってその不良品のかけらを集めたそうです。
が、運悪く工場の社長に見つかってしまったそうです!
しかし、懸命なむめのさんの姿と、誠心誠意詫びる幸之助に社長は心打たれ、その製造方法を伝授したそうです!
この「煉物」の製法を体得したおかげで、ソケットは売れなかった代わりに扇風機台座内で配線が互いに干渉しないよう固定する煉物製の部品碍盤(がいばん)の大量受注に成功し、資金難から脱出する結果となったそうですよ!
この扇風機のパーツ制作での成功を機に電気器具の製作に本格的に取り組もうと決心したそうで、松下電器の礎になったとも言って良さそうですね!
それだけでなく、松下幸之助氏はその「煉物」の製法方法を社内で公開したそうです。
それは秘密を教えるということは、それだけ従業員を信頼している、という証で従業員もその信頼に応える為に仕事を頑張るという信頼関係が築けるから、という信念があったからでした。
お金の心配をさせない
独立後は、職人肌の幸之助氏は、経理をむめのさんに任せっきりだったそうです。
事業資金が底をつくと嫁入り道具として持ってきた指輪や着物を質入れして充てていたそうです。
質に入れる物もなくなると銭湯に行くお金も無くなっていました。
幸之助さんは一日中、仕事場で没頭して、体は汗だらけ、汚れており一息ついた所で手拭を持って「これから風呂へ行くからお金を」と銭湯代を求めました。
しかし、むめのさんは銭呂代がない、とは言えず、それでいてお金の心配させるのは悪いと思い幸之助さん対してとった行動は・・・
「どうも調子が悪いから一度あなたに見てもらいたいといわれている品物があるのですが」と言って品物を渡したそうです。
すると、幸之助さんはその品物の修理に没頭し、銭湯の事は忘れて夜遅くまで作業を続けたそうです。
むめのさんは、幸之助さんの作業が終わる頃を見計らってお湯を沸かしました。
そして、
「今日はもう遅いので、銭湯に行くのは止めて、行水でもしたらどうですか?
お湯も沸いていますし、お湯を捨てるのも勿体ないですし」
と言って、その場を取り繕ったそうですよ!
幸之助さんに仕事に集中してもらう為に生活のことで心配をかけてはいけない、という気遣いが凄いですね。
でも、幸之助さんの性格を見抜ぬかれて手のひらで踊らされていたのかもしれませんね(笑)
影で努力する
名誉村民でもある幸之助さんが奈良県高市郡明日香村高松塚古墳の保存運動に関わっていた頃、家庭でも「万葉集」の話をする事があったそうです。
それからは、むめのさんは朝から晩まで、「万葉集」に関する講義のテープを聴いて覚えたり、それに飽き足らず大学の先生を招いて講義を受けるまでになったそうですが、幸之助さんには万葉集の勉強している素振りを見せなかったそうです。
その結果、幸之助さんが「万葉集」の事で思い出せない事があると「私もよう分かりませんけれど、こうと違いますやろか」とさり気なく答える事が出来るまでになっていたそうです。
努力して勉強しているのに決して知識をひけらかす事なく、相手を立てる会話がさらっと出来るなんて凄いですね!
夫婦円満
松下幸之助夫婦は夫婦喧嘩をした事が無いそうです。
幸之助さんは、松下電器を作り上げたのは六割が、むめのさんの功績だとの心持ちでいたそうです。
曰く、交渉ごとは、幸之助さんよりも、むめのさんのほうが強かったからだそうです.
特に、難しい交渉は、むめのさんにお願いしていた事もあったそうで、そっちの方が上手くいったからだそうです。
なんでも、お得意先へ行っても弁がたつし、商売も上手かったそうっですよ!
幸之助さんは、新しい取引きを始めるときには、その会社の業績より、経営者の夫婦仲を見ていたそうです。
それは夫婦仲が悪い経営者だと、社員が信用しないだそうです。
それは、偉そうなこと言ってるけど、夫婦喧嘩してるじゃないか!と社員との信頼関係が築けていないギクシャクした会社になるからだそうです。
経験上、成功してい会社の経営者は、夫婦仲が良かったそうですよ!
その為、夫婦円満である事を大切にしていた様ですね!
松下むめのさんは、夫・松下幸之助氏の後を追う様に平成5年(1993)9月5日、97歳でこの世をさりました。
満州国皇帝ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の弟・愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)の妻・愛新覚羅溥浩(ひろ)旧姓・峨浩浩については別ページに投稿しました。
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