ファミリーヒストリー 鶴見辰吾の母親方の祖先は岡崎城城主・本多康重の家系!無職の祖父の人生が面白すぎる!

8月 2, 2020

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今回は、ファミリーヒストリーは俳優の鶴見辰吾さんのルーツを探る「鶴見辰吾~父方と母方 維新後のニアミス~」のレビューです。

鶴見辰吾さんの母方の先祖は、三河岡崎藩初代藩主で岡崎城城主・本多康重の家系だったそうです!

本多康重

大政奉還から明治維新などで生活は一変しましたが、は印刷機械の制作で財をなしたそうです。

鶴見辰吾さんが俳優になったの母親方は祖父・本多義昌さんの存在が大きかった様ですよ!

今回は、ファミリーヒストリーで紹介された鶴見辰吾さんの母方の先祖、本多家のルーツについてお伝えします!

※鶴見辰吾さんの父親方のルーツは武田信玄の家臣で、信玄亡き後は松本城主・水野家の家臣で徳川家の旗本だったそうです。

鶴見辰吾さんの父親方のルーツに関しては別ページに投稿しました。

なお、再放送は、7月23日(木)23:30~0:42の予定です。

再放送を見逃した方や動画をお探しの方はU-NEXTの見逃し配信で観ることが可能ですよ♪

鶴見辰吾さんの母方の先祖ルーツは岡崎城城主!

本多博子さんの先祖は、岡崎城主で
子供の頃は、お茶を習わされたり、品のある生活をしろ、と厳しく育てられたそうです。

戸籍で調べられる最も古い先祖は、高祖父・左内(中誨・ちゅうかい)さんでした。

中誨さんには、二千石を与えられていました。

本多家の家系図

中海さんは現在の四谷御門(四谷見附に壁が残ってる)の近くに住んでいたそうです。

現在の四ツ谷駅から900メートル程の千代田区五番町の日本大学通信教育部3号館の施設になっていました。

丁度、大学の手前にご番長の昔の地図の看板が有り、そこに左内さんの一台前の本多筑前守さん)の名前が記載されており、五百石の広さが示されていました。

旗本は時期によりますが5200人くらいいて、その中で1000石~3000石のかなり大身の旗本は800人くらいしかいなかったそうです。

中誨さんの2000石はなかでも上位10%にあたると考えられているそうです。

「寛政重修諸家譜」で本多博子さんの家系を辿ると、三河岡崎藩初代藩主で岡崎城城主・本多康重にたどり着きました!

東京に移住

静岡での生活は苦しく中誨さんは、土地を手放し、東京に戻りました。

中誨さんは、神田に居を構えました。

曽祖父・三子三(みねぞう)

家計は苦しく明治19年、中誨さんの長男で、将来の鶴見辰吾さんの曽祖父となる三子三(みねぞう)さんは僅か10歳で、築地の印刷機械工場に丁稚奉公に出たそうです。

28歳で独立し、印刷機械の工場「本多製作所」を隅田川の新大橋の袂に設立しました。

大正3年、本多義昌(鶴見辰吾さんの祖父)が誕生し
深川に大きな屋敷を構え、子どもたちに一人ずつ乳母をつける程裕福だったそうです。

そんな中、大正12年の関東大震災で被災してしまいます。

深川は被害甚大で工場は消失してしまい仮店舗での営業となりました。

しかし時代は印刷が活気となり、印刷機の新機種を制作し特許も取得するなど再び成功しました。

更には大陸にも販路を築いたそうですよ!

祖父・本多義昌は俳優希望!

三子三さんは、印刷の帝王学を義昌さんに教えましたが・・・

まったく興味を示さなかったそうです・・・。

結局、祖父・義昌さんは印刷に興味を持たず姉夫婦が印刷会社を継いだそうです。

義昌さんは実は俳優志望で
映画スターを目指しブロマイドまで作っていたそうです。

本多義昌の自主制作ブロマイド

数本の映画に脇役として出演しましたが、芽は出なかったそうです。

やがて莫大な遺産を相続し、
昭和15年(1940年)恒子さんと結婚し、文京区本郷の一等地に居を構えました。
そして、昭和17年(1942年)次女で後に鶴見辰吾さんの母となる博子さんが誕生しました。

昭和19年(1944年)義昌さんは出征し、満州に赴き、ソビエト連邦との国境、虎頭で国境警備を任されました。

しかし、翌年脊髄前角炎(ポリオ)を発症し、陸軍病院入院を転々としている最中に終戦を迎え、病人だった為シベリア送りにはあわず、21年6月9日復員を果たしました。

自宅は戦災にあい消失するも家族全員無事だったそうですよ。

やがて病気は完治しましたが、働く気力を失ってしまったそうです。

その後、父親が住んでいた不動産を切り売りし、本郷に家を立てました。

昭和32年(1957年)3月24日未明、姉夫婦が営んでいた本多機械製作所は、近所の火災に巻き込まれ全焼し、廃業する事になりました。

不思議な力を身に着けた?

不思議な力が身についた、と近所の人たちに占いを始めたそうですが、結局、定職に就く事無く、昭和50年(1974年)2月3日21時に61歳で亡くなったそうです。

その死に関しては、亡くなる日を予言していたそうで、生前2月3日の21時には突然機嫌が悪く当たり散らしたそうです。

[L2_wsbStart][L_wsbAvatar]https://tvreview.tokyo/wp-content/uploads/2020/07/yuka-book2-150.jpg[L_wsbName][L_wsbText]本当に予知能力が身についていた??[L_wsbEnd]

幼い頃義昌さんに鶴見辰吾さんはとても可愛がってもらった記憶があるそうで、俳優志望だった祖父・義昌さんに、俳優になった自分を見て欲しかった・・・と嬉しそうに語りました。

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母・本多博子さん

本多博子さんは、昭和36年、都立高校を卒業すると友人に鶴見剋之さんを紹介されたそうです。

鶴見剋之(当時30歳)さんと本多博子(当時22歳)さんは、7年の交際を経て昭和39年(1964年)結婚しました。

鶴見辰吾さん誕生

その年、鶴見辰吾さんが誕生しました。

父・鶴見剋之さんが兄弟(長男・武さん、次男・榮一さん、三男・剋之さんの三人)で経営していた電気設備会社は、順調だったそうです。

昭和42年(1967年)国分寺に、広い庭がある100坪の新居を購入しました。

ところが翌年・昭和43年(1968年)会社は経営不振に陥り倒産の危機に!

その結果、新居は売却されそれ以来、武さん、榮一さん剋之さんの三人は連絡を取る事もなくなったそうです。

その後、父・剋之さんはラーメン店を立ち上げました。

ラーメン店は好調で、団子屋、居酒屋などに業務を拡大したそうです。

そして鶴見辰吾さんは昭和52年(1977年)私立成蹊中学校に入学しました。

竹の子すくすく(ANB現テレビ朝日)に
片平なぎささんの弟・雄太役として、鶴見辰吾が2500人の中から選ばれデビューを果たしました。

竹の子すくすく
画像出典:ヤフオク

なおこの作品には、雄太の幼年時代役で鶴見辰吾さんの弟の鶴見祐一さん(後の三上祐一)も1話にワンシーン出演しているそうですよ!

これは叔母が内緒でオーディションに申し込んだそうです。

その後はNHK土曜ドラマ「天城越え」に出演し、翌年転機となり社会現象ともなったドラマ「3年B組金八先生」に出演が決まりました。

役柄が同級生の彼女を妊娠させる生徒の役と聞いて、母親は激怒したそうです(笑)

鶴見辰吾さんのルーツが分かっての感想

鶴見辰吾さんは、ルーツの事を知って「センチメンタルになるかと思っていたけど、明るく楽しい気持ちになった」と明かしました。

特に母方の祖父・義昌さんが俳優志望で、幼い頃演劇の鑑賞などによく連れて行って貰った記憶があり、その影響で俳優を目指したんだなぁ・・・と感無量でした。

歴史に翻弄されながらも生き抜いて命を繋げている・・・と結びました。

ファミリーヒストリーの動画

今回ファミリーヒストリー ・鶴見辰吾を見逃した方は動画をU-NEXTの配信で観ることが可能ですよ♪

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Posted by morimori