歴史秘話ヒストリア 愛新覚羅溥傑・浩の手紙!まとめ&見逃し動画配信 満州国皇帝の弟
NHK歴史秘話ヒストリア「だからあなたと歩きたい愛新覚羅溥傑・浩 松下幸之助むめの」では、激動の昭和を生き抜いた2組の夫婦の物語の秘話が語られます。
紹介される秘話は以下の二組の夫婦で、妻にスポットが当てられます。
・満州国皇帝ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の弟・愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)の妻・愛新覚羅溥浩(ひろ)旧姓・嵯峨浩
・松下電器松下幸之助の妻むめの
この投稿では、日本人妻・浩さんが中国で投獄された夫・愛新覚羅溥儀が手紙で心をつないだ愛の放送内容のまとめ、そして見逃した方に見逃し動画配信のお知らせを紹介します。
だからあなたと歩きたい愛新覚羅溥傑・浩の放送内容
激動の昭和を生き抜いた満州国皇帝(ラストエンペラー)の愛新覚羅溥儀の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)と浩(ひろ)夫妻2組の夫婦は太平洋戦争終戦後、2人は16年もの間、愛新覚羅溥傑は逮捕され中国で投獄され、妻・浩さんと溥傑は、日本と中国で離れ離れになってしまいました。
二人の間には、長女・彗生(えいせい)と次女・嫮生(こせい)の二人の娘がいました。
愛新覚羅溥傑・浩夫婦の心をつないだのは、互いを思いやる「手紙」でした。
嵯峨侯爵邸
愛新覚羅溥儀の弟(溥傑)の妻である浩の実家、嵯峨侯爵邸が現在の杉並区大宮にありました。
嵯峨侯爵邸は現在杉並区立郷土博物館になっています。
愛新覚羅溥儀の弟(溥傑)の妻である浩の実家、嵯峨侯爵邸跡が杉並区大宮にあり、そこは現在、杉並区立郷土博物館になっています。博物館の長屋門は、武蔵野の大地主だった井口家から移築。 pic.twitter.com/J9SzXulelX
— 井上リサ (@JPN_LISA) December 16, 2019
【住所】東京都杉並区大宮1丁目20-8
【TEL】03-3317-0841
【利用時間】9:00~17:00
【観覧料】100円(中学生以下無料)、20名以上の団体は1人80円
【定休日】月曜日、毎月第3木曜日(祝日・休日の場合は翌日が休館日)、年末年始(12月28日から1月4日)
ここから結婚式場の軍人会館(現・九段会館)へ向かったそうです。
杉並区立郷土博物館のある場所には、かつて嵯峨侯爵邸があった。満州国皇帝愛新覚羅溥儀の実弟、愛新覚羅溥傑の妃となった嵯峨浩は、この場所から結婚式場の軍人会館(九段会館)へ向かった。 pic.twitter.com/I2fC09cRXm
— 橋本敏行 (@geshutalt) December 23, 2014
紀州青石の庭石のみが当時のまま残されています。
この博物館の敷地は、もと嵯峨侯爵邸でした。侯爵の孫娘、浩は満州国皇帝溥儀の弟、溥傑に嫁いだ人。当時を偲ばせるのは、この紀州青石の庭石のみです。 pic.twitter.com/JCh2DvYMJi
— 四ッ谷龍 (@leplusvert) April 7, 2019
結婚の経緯
1934年(昭和9年)、清朝のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀を、日本が皇帝に祭りあげ、傀儡国家「満州国」を建国しました。
その弟である溥傑は、20歳で来日し、学習院や士官学校で学びました。
関東軍の軍部は、日本と満州の絆を深めるために、愛新覚羅溥儀の弟・愛新覚羅溥傑となんとしても日本人と結婚させるつもりでした。
愛新覚羅溥傑に日本人との結婚の話が持ち上がった頃は、陸軍中尉の階級でした。
花嫁候補として選べれたのは、皇室と関係が深い嵯峨実勝侯爵の長女・浩(ひろ)さんでした。
政略結婚とわかっていましたが、当時は断る訳には行きませんでした。
この結婚の話を持ちかけられた時、嵯峨浩さんは、嫌で嫌で泣き続ける日々を送ったそうです。
しかし、実査にお見合いしてみると「穏やかで学者風の真面目なお人柄に、ひかれた」との事です(浩さんの自伝「流転の王妃」より)
また 愛新覚羅溥傑氏の自伝には「見合いではあったがお互いに一目惚れだった」とも描かれており相思相愛の仲になっていました。
しかし、日本の敗戦で、満州国解体、中華人民共和国が設立されました。
空路日本に逃亡する予定でしたが、空港で待ち受けたソ連軍に愛新覚羅溥傑は捕まり、溥傑氏はソ連に抑留後に中国に引き渡され、戦犯管理事務所に投獄されました。
手紙
1955年(昭和30年)秋、愛新覚羅溥傑からの手紙が届きました。
これは、周恩来首相のはからいでした。
その理由は、長女の慧生さんの手紙が目に留まり「人の親として泣けた」と感動したからだったそうです。
そして、愛新覚羅溥傑氏は、周恩来の尽力で特赦され自由の身になり庭師として生活が始まりました。
会うことは出来ませんでしたが手紙のやり取りは許されていました。
浩さんが二人の娘の成長を綴れば、愛新覚羅溥傑氏からは娘の成長に喜び妻に感謝する返事・・・
そして手紙に同封された妻と二人の娘の写真を切り取り、写真立てを作って貼り付け思いを馳せました。
そして互いに再会を願う手紙を送り合いました。
しかし、1957年(昭和32年)12月(愛新覚羅溥傑氏50歳、浩さん43歳)の時、長女の慧生さんは恋人とのピストルでの無理心中で亡くなってしまいました。(天城山心中)
その事を手紙で「申し訳ございません・・・私がしっかりしていなかったばっかりに・・・」と伝えると「もし誰かに罪があるとすれば父である私にだ」と優しく認めました。
そして、1960年(昭和35年)12月、愛新覚羅溥傑氏が53歳の時、釈放されました、
ついに離ればなれになった家族が再会出来たのは、戦争が終わって16年後の1961年5月、浩さんが47歳の時でした。
浩さんと次女・嫮生が長女・慧生さんがこの世を去って3年後に、愛新覚羅溥傑氏と中国で再会したときに、白木の箱に遺骨が収められ、こうして一家団らんを取り戻しました。
駅で迎えた愛新覚羅溥傑氏は腕を差し出し、昔のように二人腕を組んで歩みだしました。
1987年(昭和62年)6月20日没し、愛新覚羅溥傑氏は、棺の前で号泣しました。
松下幸之助の妻・松下むめのの秘話は、別ページに投稿しました。
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