歴史秘話ヒストリア ガダルカナル 大敗北の真相!幻の戦闘記録の内容とは?
「歴史秘話ヒストリア」終戦75周年記念番組の第二弾は「ガダルカナル 大敗北の真相」の秘話が語られます。
およそ80年前の1942年南太平洋の孤島ガダルカナルで約半年に渡る日米両軍が激突した「ガダルカナルの戦い」が行われました。
ガダルカナルの戦いでは、上陸した日本兵3万1400人の兵士のうち、6000人が戦死しました。
さらに病気や飢餓で1万5000人が命を落としガダルカナルは漢字で「餓島」とも表現される程でした。
そんな「ガダルカナルの戦い」で、海軍と陸軍の共同作戦として米軍のヘンダーソン飛行場の奪回作戦が実施されました。
陸軍の精鋭部隊一木清直大佐率いる一木支隊が向かいますが、10倍に近いアメリカ海兵隊の待ち伏せに会い全滅してしまいました。
新たに発見された日本軍参謀・兵士の日記や幻の戦闘記録から、日本軍が敗北に至る過程から組織やリーダーシップの問題が浮き彫りとなりました・・・。
今回の投稿では一木支隊が全滅で浮き彫りになった陸軍と海軍の不協和音についてと、「ヒストリア ガダルカナル 大敗北の真相幻の戦闘記録」の動画の案内をします。
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「ガダルカナルの戦い」とは?
1942年、太平洋戦争で快進撃を続けてきた日本軍が一転、敗北の道を突き進んでいく転換期となったのが1942年8月7日から1943年2月7日まで半年に及ぶガダルカナル島の戦いでした。
ガダルカナルに上陸した3万1400人の兵士のうち、6000人が戦死し、飢餓や病気で1万5000人が命を落としガダルカナル島は漢字で「餓島」とも表現するようになりました。
中でも日本軍が建設を行っていた飛行場が上陸して来た米軍海兵隊に占領され、日本陸軍による逆上陸で米軍に整備され「ヘンダーソン飛行場」と名付けられた飛行場を取り返す日本陸軍と海軍の共同作戦が行われました。
しかし、結果は陸海軍の不協和音が原因で、判断ミスをきっかけに、10倍を超えるアメリカ海兵隊の待ち伏せを受け、日本陸軍の精鋭部隊一木支隊は全滅の悲劇に会いました・・・。
海岸線に寄り添うように沈む日本軍の輸送船「鬼怒川丸」

前回放送された「歴史秘話ヒストリア・伊400 幻の巨大潜水艦」のレビューはコチラです!
ヘンダーソン飛行場を巡る戦い
ミッドウェイ海戦で空母4隻を失った日本軍では、連合艦隊司令長官山本五十六長官の肝いりで
オーストラリアとハワイを結ぶ地点にあるガダルカナル島を海軍航空隊の陸上基地として飛行場をルンガ岬に建設する計画を進めて工兵(設営隊)を送り整備を行っていました。
8月7日、あとはもう少しで完成という日にアメリカ軍を中心とする連合軍がガダルカナル島に大挙して上陸してきました。
他にも連合軍は、フロリダ諸島にも押し寄せました。
工兵は武装していない為、反撃できず容易にアメリカ軍は上陸に成功しました。
護衛の日本海軍陸戦隊もいましたが、多勢に無勢でした。
そして、アメリカ軍は奪った滑走路を整備し、ヘンダーソン基地として運用を始めました。
この報は日本軍(陸海軍)の最高統帥機関の大本営に送られ、そこで日本海軍は陸軍と共同作戦で、飛行場の奪還を決定しました。
選ばれたのはグァム島で待機していた陸軍の精鋭部隊一木清直大佐率いる大本営直轄の第7師団の歩兵第28連隊を基幹とする一木支隊の約2,300名で、実は一木支隊は、ミッドウェイを占領する為に中国戦線方面から集められた部隊でした。
精鋭部隊の一木支隊には楽勝ムードが漂っていましたが、結果はアメリカ軍1万900人により待ち伏せに会い壊滅し一木清直大佐も自決していました。
エリート参謀達の判断ミス
日本海軍が南太平洋ソロモン諸島ガダルカナルを占領したのは、オーストラリアとハワイを結ぶ線上にある為、そこに飛行場を建設すれば連合国のオーストラリアとアメリカ分断が出来るとの判断からでした。
現地人を雇い空港建設を行い完成まであと一歩のところでした。
この情報は、アメリカ海軍にも伝わっておりアメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は ガダルカナル攻略を決意しました。
そして8月7日未明アメリカ軍海兵隊が大挙押し寄せ防御が手薄な完成直前の飛行場は占領されてしまいました。
その報が大本営にもたらされると、海軍は陸軍に共同作戦を申し出ました。
太平洋では初の共同作戦となりました。
しかし中国や南太平洋で連戦連勝の陸軍は実力を過信していました。
その過信が敵兵力の勢力を見誤るという過ちに繋がりました。
第一次ソロモン海戦
夜戦を得意とする三川軍一中将率いる第8艦隊がガダルカナルに到着し、夜間の奇襲攻撃で艦隊は大打撃を受けました。
この攻撃で巡洋艦を4隻失った米艦隊は撤退。
海兵隊はガダルカナル島に残され絶体絶命。
海兵隊は見捨てられた?と不安にかられました・・・
この戦いは日本海軍は損傷を受けはしたものの一隻も失わなかった日本軍にとっては久々の勝利でした。
そして、後にこの戦いは一次ソロモン海戦と呼ばれる様になりました。
このミッドウェー海戦の敗北以来、久々の大戦果を挙げた海軍の勝利は大々的にニュースで日本国内に知らされる事となりました。

しかし、本来海軍の目的はガダルカナルに押し寄せた輸送船団を叩き物資の補給を経つのが目的だったのに艦隊同士で砲撃戦を行っている間に輸送船団によって武器や食料などの大量の物資が上陸した海兵隊に届き、米軍は長期戦の準備が整ってしまい、これがガダルカナルの戦いで日本軍の敗因の一つとなってしまいました。
この事実を知ったラバウルの陸軍第17軍司令部はこの海軍の判断を非難しました。
共同作戦と言いながら、攻撃の優先順位が食い違う海軍陸軍の間に不協和音が生じました。
一木支隊の上陸作戦を統括する参謀長の二見秋三郎少将は、海軍への痛烈な批判を手帳にこう綴っていました。
ガダルカナルの敵勢力の見誤り
ソ連にいる日本のスパイからの情報で、ガダルカナルに押し寄せた海兵隊の兵力は15000人との事でした。
この数はかなり正確な情報でした。
しかし、大本営は、逃走した艦船で多くの海兵隊が撤退し、ガダルカナルに残された海兵隊の数を大本営の推定では実際の数の10900人の5分の1の2000人に見誤りました。
そんな中、一木支隊を統括する17軍司令部二見秋三郎参謀長は冷静に判断していました。
上陸部隊は7000~8000人は居るはず、と主張し一木支隊の増援を求めました。
その不安な心境を手帳に綴っていました
しかし部下の参謀からは猛反発を受け、二見参謀長の兵力増員の意見はかき消されてしいました。
この陸軍参謀本部のナンバー2である参謀次長からの電報により二見参謀長は大本営の命じるがままに、一木支隊の進撃を認める以外に残された手段はありませんでした。
ガダルカナルでの一木支隊の戦闘
【1942年8月7日】アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将を指揮官とする米海兵隊第一海兵師団は、ガダルカナル島に上陸し、ルンガ岬に日本軍が建設中であったルンガ飛行場を奪取してヘンダーソン飛行場を完成させました。
日本軍のガダルカナル島守備隊は飛行場西側のマタニカウ河に撤退して海軍本部を設置しました。
一木支隊は、第十七軍(司令官百武晴吉陸軍中将、参謀長二見秋三郎陸軍少将)より米軍が占領しているヘンダーソン飛行場奪回命令を受けました。
【8月8日~9日】第一次ソロモン海戦が勃発。
奇襲攻撃で一網打尽を狙う三川中将が率いる第8艦隊の夜間攻撃により米艦隊は重巡洋艦4沈没という大打撃を受けました。
これにより米艦隊はガダルカナルより撤退しました。
【8月16日】一木支隊は一木大佐直率の先遣隊916名と後続部隊(第二梯団)約1500名(と共にに分割され、一木支隊先遣隊は速度の早い駆逐艦6隻に分乗し海軍のトラック泊地から出発しました。
※後続部隊は横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達海軍大佐)と共に速度の遅い輸送船でガダルカナルに向かいました。
【8月18日深夜】一木支隊先遣隊はガダルカナル島タイボ岬に上陸、ヘンダーソン飛行場奪回を目指して西進しました。
しかしアメリカ海兵隊はこの日、コーストウォッチャー(現地の協力者)の通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知していました。
【8月19日未明】一木支隊先遣隊はガダルカナル島タイボ岬(飛行場の東側約35km地点)に上陸しました。
米軍は倒した日本軍斥候兵(偵察員)の階級章から、タイボ岬に上陸したのは日本陸軍部隊であると確信しヘンダーソン飛行場の手前のルンガ地区イル川東岸の防備を固めて20日夕刻までには防衛ラインが築かれました。
【8月20日】米軍の戦闘記録には8月20日戦況を左右する出来事が記載されていました。
護衛空母ロングアイランドによりF4Fワイルドキャット戦闘機とSBDドーントレス急降下爆撃機の合計31機がヘンダーソン基地に到着し、事実上、米軍は制空権を掌握する事になりました。

囮(おとり)になった一木支隊
916名に対し5倍近い1万900人の米兵に立ち向かった作戦は無謀と避難されましたが、部隊を率いる一木大佐は作戦を続けるべきかどうか司令部の判断を仰ごうにも、連絡できない状況に置かれていました。
それは無線による連絡方法でした。
陸軍司令部があるラバウルはガダルカナルに連絡するには遠すぎるため、海軍の潜水艦が無線を中継する役割を担っていました。
しかし海軍の偵察機により米空母がガダルカナル沖合で発見の報が知らされました。
【8月20日9時40分】第二次ソロモン海戦の兆し
連合艦隊は周辺にいた全艦に出撃命令を下し、無線中継を担っていた潜水艦は陸軍との共同作戦中にも関わらず任務を放棄し、持ち場を離れてしまいました。
この報を元に1942年8月23日~24日にかけて第二次ソロモン海戦が勃発しました。
この海戦に無線連絡を担う潜水艦が向かった結果、一木支隊は陸軍司令部との連絡が途絶してしまいました。
先のミッドウェー海戦でアメリカ艦隊に大敗した海軍は復讐に燃えており、共同作戦とは名ばかりでアメリカの空母部隊を誘い出し、殲滅することを最優先に考え、むしろ陸軍を囮として利用していた事が連合艦隊参謀長の宇垣纒の日記「戦争録」で判明しました
つまり、陸軍がガダルカナル島の米軍と戦うと、救援にアメリカの空母が駆けつけるので、そこを叩くという狙いがありました。
陸軍司令部との連絡が途絶し、孤立無援の状態になった一木支隊ですが、一木大佐は、大本営から受けていた命令を実行を決断しました。
イル川渡河戦
(米国名:テナルの戦い)
【8月20日18時00分】偵察の為イル川を渡河し先行していた渋谷大尉・館中尉ら将校斥候34名の内、31名が米軍の攻撃により戦死しました。
【8月20日22時30分】一木支隊は闇にまぎれて飛行場の米軍陣地手前のイル川対岸に忍び寄る事に成功しました。
しかしこれは罠で、米軍は照明弾で一木支隊が潜む一体を照らし一斉攻撃を仕掛けました!
これは地形を計算した米軍の罠で、一木支隊が潜んだ地帯から米軍陣は川向こうの少し高くて見えにくい場所にありました。
一方米軍からは川で足止めされた日本軍を上から見下ろせる位置に陣取っており、天然の要塞のような地形になっていたのでした!
2方向に分散し待ち構えていた米軍は、一木支隊に「十字砲火」を浴びせました!
追い詰められた一木支隊は、圧倒的な火力で攻撃する米軍の銃撃を避ける為、川べりのくぼ地に身を隠しました。
実は、それこそ仕掛けられた罠で、米軍はその一木支隊が逃げ込んだくぼ地めがけて、迫撃砲を雨あられと撃ち込みました!
罠を察知した一木大佐は部隊に突撃中止を命じますが時既に遅し!
【8月21日未明】米軍のスチュアート戦車隊が逃げ道をふさぐように、一木部隊の側面から背後へと回り込み攻撃を仕掛けました。
一木支隊を袋小路に追い込んだスチュアート軽戦車は、日本海軍が第一次ソロモン海戦で見逃した、米軍の輸送船団が運んだ戦車だったのでした!
行き場を失った一木支隊は狭い海岸の砂州を進みました。
しかしその砂州は、米軍の攻撃が集中する最も危険な場所で一木支隊は絶体絶命の窮地に立ちました。
狙ったかの様にヘンダーソン飛行場から米軍機が離陸し、わずかに残った一木支隊に容赦なく機銃掃射を浴びせかけました。
【8月21日10時25分】米空母発見の報を受けラバウルを飛び立った零戦隊が空母を発見出来ず、一木支隊の支援に現れましたが、時すでに遅し。
一木大佐は軍旗を燃やし自決、兵数・火力に圧倒的な差がありこの戦いで916名いた一木支隊先遣隊のうち日本側記録777名が戦死、生き残ったのは後方に待機していた約100名を含む128名だけという悲惨な結果となりました。
海軍は空母攻撃を優先した結果、海岸に逃げた一木支隊は全滅する悲劇となりました。
一木支隊全滅の知らせがラバウルの陸軍司令部に届きました。
増援が決まるまで一木支隊の派遣を待つように具申していた二見参謀長は、日記に無念さを綴っています。
それに対し、海軍側の反応はまったく異なりました。
海軍の宇垣参謀長は自身が終戦を告げる玉音放送後の彗星艦爆による特攻に至るまでの太平洋戦争の戦闘記録を「戦藻録」に残しています。
その中で宇垣参謀長はこの敗因をこう綴っています。
この様に海軍は、一木支隊の全滅の原因を陸軍に押し付ける始末でした。
海軍と陸軍の共同作戦とは名ばかりに、同じ戦場で別々の戦いを進めた結果一木支隊全滅の原因を見極めようとはませんでした・・・。
※一木大佐の自決に関しては諸説あります。
テナルの戦い(英語: Battle of the Tenaru)は、アリゲーター・クリークの戦い(英語: Battle of Alligator Creek)とも呼ばれ、ガダルカナル島の戦いにおける日本軍最初の大規模反攻でした。
この大敗により日本軍はガダルカナル島の連合軍戦力が当初の想定を超える規模であることを認識する事となりました。
ヘンダーソン飛行場奪還のため逐次部隊を送り込んでいったものの第二次ソロモン海戦で低速の輸送船団が空襲をうけて撃退され、一木師団第二梯団の上陸は中止される事になりました。
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最大のチャンス
【8月20日】遂にヘンダーソン飛行場には、グラマンF4FワイルドキャットとダグラスSBDドーントレス急降下爆撃の合計31機が配備されました。
米軍は遂に飛行場の整備を完了させ、着々と兵力が増強されていきました。
防御にも力を入れ、飛行場を有刺鉄線を張り巡らせ取り囲む難攻不落の陣地を築いていました!
そんな中、大本営では次なる部隊の派遣が決定しました。
【9月7日】6000人の川口支隊がガダルカナルに上陸しました。
川口支隊は、米軍に察知されない様に、地図も無いにも関わらずガダルカナルのジャングルを切り開きながらヘンダーソン飛行場を目指しました。
指揮するのは、知将川口清健少将で、川口支隊は秘策として実行されたのは、部隊を分け飛行場の左右から攻撃を行い、兵力が分断されている隙に司令部のある飛行場南側から襲いかかる奇襲する陽動作戦でした。
作戦の要となったのが飛行場から南へ約2キロのムカデ高知と呼ばれる丘陵地でした。
そこは幾つもの尾根に囲まれ米軍から身を隠すのにうってつけの地形でした。
【9月13日夜】作戦通り防御の手薄な基地の左右から米軍の陣地に奇襲攻撃をしかけました。
米軍は不意を疲れ慌てふためきました。
これが日本軍にとって最大のチャンスとなった・・・はずでした。
混乱に乗じ、川口支隊の本隊は計画通り、米軍司令部目前まで到達していました。
しかし、激しい防御力(火力)の差であと一歩の所で集中砲火を浴び防衛ラインを突破出来ずにいました。
原因は火力の不足でした。
海軍は輸送船の被害が甚大となっており、ガダルカナルへ輸送船を手配する事を渋り、輸送力が劣る駆逐艦で兵器の輸送っていた為、野砲(大砲)や迫撃砲などでの援護が出来なかったのが致命傷となっていました。
一方火力に勝るアメリカ海兵隊は、大火力で応戦し日本兵633人が犠牲者となりました。
そしてムカデ高地は、米軍から「ブラッディリッジ、血染めの丘」と呼ばれるようになっていました。
二見参謀長は川口少将からの電報で支隊6000人の食料が底をついている事を知らされました。
大本営は二見参謀長が作戦に否定的という理由で二見参謀長を更迭させ任を解きました。
一木支隊、川口支隊の二度の大敗北により悲壮感が漂いましたが、本当の悲劇はまだ続きました。
命運を分けたのが補給と輸送でした。
米軍は制空権を確保し、更に補給ルートも確保し戦力を増強しました。
一方日本海軍は、2万人以上の陸軍兵や食料などの物資を輸送船で送る事を決意しました。
しかし、制空権を握る米軍機の攻撃を受け多くの輸送船を損失していました。
補給を絶たれ取り残された日本兵は更に厳しい状況に置かれてしまいました。
残存兵力の日本兵は、再起を誓い島中に散らばりジャングルで決死の終わりなきサバイバルが始まりました・・・
終わりなきサバイバル(陸海軍の分裂で泥沼に向かう敗残兵)
エスペランス岬に挫傷してダイビングスポットにもなっている輸送船「宏川丸」は擱座しながらもガダルカナル島第二次強行輸送船団として第三十八師団等を揚陸させました。
当時ジャングルを彷徨った小尾靖夫少尉の手記や日記には、なんとか生き延びようと悪戦苦闘する姿が描かれていました。
海岸には兵士たちの命を救う食料、椰子の実がありました。
・・・しかし椰子の実はたどり着いた日本兵により直ぐに食べ尽くされてしまったそうです・・・。
小尾靖夫少尉ら日本兵は、この頃になると肉は削げ落ち皮だけの姿になる程痩せ細ってしまいました。
日本兵と戦った元米軍兵ロイ氏は・・・
「日本兵は、飢餓に冴えなまれながらも戦った。
日本兵は、木登りがうまかった。
木の上からは狙撃兵に狙われて恐ろしかった。
彼らは飢え、病気、マラリアとも戦った・・・可愛そうだった」
と当時の心境を語りました。
寝ても覚めても、食うが頭から離れない
ねてもさめても食べる事ばかり
ただ食べたい
小尾靖夫少尉と行動を共にした兵は一人、また一人と飢えで命を落としていきました。
小尾靖夫少尉らがジャングルを彷徨っている頃、ガダルカナル島は略称でガ島とも呼ばていましたが、食料が無く餓死する兵士が増え「飢島」と揶揄されるようになっていました!
追い詰められたのは陸軍だけでなく、海軍も多くの輸送船を失っており小型の船(大発)で島伝いに米軍の目を盗みこっそり食料など物資の輸送を行う鼠輸送がやっとでした。
遂に海軍は、大本営でガダルカナルの放棄を申し出ました。
この申し出に対して陸軍参謀は「今後海軍に協力できん」と啖呵を切る程でした。
歯でさえも金冠や充填物が外れてしまったのを見るとボロボロに腐ってきたらしい。
歯も生きていることを初めて知った。
嗚呼、俺は齢わずか22歳で終わるのだろうか?
まだこの純潔をけがしてはいなかった。
兵士たちが亡くなっていく中、大本営で陸海軍は打開策が思い浮かばない状態で議論を繰り返すだけでした。
その間、日本兵1万5千人が飢えと病気で亡くなっていました。
撤退
ガダルカナル島のエスペランス岬は、故郷に戻れず島で亡くなった日本兵が祀られています。
1942年12月31日、大本営は遂にガダルカナルからの撤退を決定し、そのエスペランス岬から駆逐艦による敗残兵の救出が始まり半年に及ぶガダルカナルの戦いは終焉しました。
幸いにも生き残った小尾少尉は戦後貿アメリカに渡り易商として成功し、1963年ミネアポリスで当時敵であった元アメリカ兵と再会したそうです。
だからこそ平和の為に努力することが個人の最高の義務だ。
浮き彫りになった問題点
日本軍はガダルカナル島奪回作戦を「少数の陸軍部隊で容易に実現できる」と楽観視していました。
しかし、一木支隊が全滅の憂き目にあってしまいました。
その理由は数々有るので以下に列挙します。
● 本来海軍はアメリカ軍の輸送船を破壊し、アメリカ軍を兵糧攻めにする筈が、第一次ソロモン海戦で、戦艦、巡洋艦、駆逐艦を撃退するものの、その間に米軍の輸送船により多くの物資、特に日本軍を苦しめた重火器や軽戦車が上陸した米軍に渡ってしまった。
● 米艦隊を追い払ったので、ガダルカナルに上陸した連合軍側戦力は2,000名程度と少なく見積もっていたが実際には約119,000名にものぼる兵力があった。
※ソビエト連邦駐在武官(スパイ)からの上陸部隊の正確な数(約1万5千人)の情報を得ていたのに、第一次ソロモン海戦で、戦艦、巡洋艦、駆逐艦を撃退した為、残存兵力は2000人程と誤認識していた事が後に発見された文章で判明しています。
ガダルカナルで精鋭部隊が全滅した理由のまとめ
● 1万人を超えるアメリカ軍の勢力を2000と見積もって楽勝と安心しきって侮っていた
● 作戦の目的を共有しあっていなかった
● 海軍は、一木隊にによるヘンダーソン飛行場の奪回の支援の為、米軍の輸送船団を攻撃し、兵糧や弾薬を届けさせない事が目的なのに、米艦隊がガダルカナルに現れると戦艦、巡洋艦などと砲撃戦に向かっている間に米輸送船団は上陸した海兵隊に豊富な兵糧や弾薬を揚陸させてしまい、米軍は長期戦の準備が整ってしまった。
実は大敗したミッドウェイ海戦でも、ミッドウェイ占領が優先事項か?米空母殲滅が優先事項か?をハッキリ決めていなかった為、指揮系統が混乱しどっちつかずの状態の隙を米海軍機につかれ4隻の空母を失い、陸上基地としてガダルカナルを使うつもりが、本来の目的である陸軍上陸部隊の援護を放置し、敵艦隊の攻撃に向かってしまう!というミッドウェイ海戦の戦訓が活かされず再び大敗を帰す結果になってしまいました。
それだけでなく、ガダルカナルは後に海軍航空隊が連日奪回の為に爆撃機に護衛の零戦(ゼロ戦)を伴って攻撃に向かいますが、ラバウルから往復8時間をかけて長駆戦闘に向かうも迎撃する米軍側はレーダーを駆使し、万全の迎撃体制で待ち受けており、闘いは長期化するに連れ、エースの笹井醇一中尉を始めベテランパイロットを失い「零戦の墓場」と自虐的に表現する程消耗して、結局ガダルカナルは諦める事になりました。
さらに連合艦隊司令長官山本五十六大将が乗機する一式陸上攻撃機もヘンダーソン飛行場から飛び立ったP-38の餌食となり、山本五十六長官が標榜する戦争講和(和平)の道が閉ざされ、如何にして戦争を終結させるか?を決定出来ず戦争は泥沼化し敗戦への道に向かう事になってしまいました。
前回放送された「歴史秘話ヒストリア・伊400 幻の巨大潜水艦」のレビューはコチラです!
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