ファミリーヒストリー 古舘伊知郎は神回!?放送内容のレビュー
有名人の家のルーツと歴史を探るNHKの「ファミリーヒストリー」フリーアナウンサーの古舘伊知郎さんの家族の歴史が解き明かされました。
タイトルが「古舘伊知郎~大陸で生まれた父と母 ある偶然が~」
となっており、その題名の通り
ご両親の祖父である古館清治さん、堀口辰蔵さんは偶然にも戦前朝鮮半島~中国大陸の青島でお米など穀類を扱う商店で財を成しました。
戦争などの国の事情により日本に帰国すると
古舘伊知郎さんの両親となる古舘順太郎さんと堀口安也子さんは家庭教師と生徒の間柄になりました。
しかし、早稲田大学に通っていた古舘順太郎さんは太平洋戦争の戦局悪化により学徒動員で陸軍士官となり東南アジアに赴きました。
その途中乗船していた輸送船がアメリカ軍の魚雷の直撃を受けました!
しかし、その魚雷が不発弾だったという偶然の出来事で生き延び、戦後復員した実家に堀口安也子さんが訪れ、やがて結婚し、古舘伊知郎さんが誕生し、御存知の通りの活躍です。
また、饒舌なマシンガントークの口調は両親の遺伝説も?
今回は神回とも言える内容だったので放送内容を紹介しますね!
古舘家のルーツ
【20日夜】 #ファミリーヒストリー #古舘伊知郎 さんは、20日(金・祝)夜7時30分から放送予定です。
戦前の中国・青島で生まれた父と母。今回、父と母の間にあった“ある偶然”が明らかに…。そして古館さんのマシンガントークの原点も![総合]https://t.co/je2JOqQTkk— NHKドキュメンタリー (@nhk_docudocu) March 17, 2020
古舘家は、佐賀県唐津市の名護屋(なごや)地帯がルーツだそうです。
平安時代・唐津の北西部・名護屋肥前守入道藤原朝臣経元
(ふじわらつねもと)
が名護屋一帯を収めたそうで、
名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮に出兵の起点とした場所だそうです。
その地に「古館」という小字がありました。
そこが古館家の始まりと考えられているそうです。
日本一チケットが取れない人気講談師
神田伯山さんの本名も「古舘姓」で
同じ佐賀県唐津市の「古館」出身だった事もファミリーヒストリーの取材で判明しました。
しかも高祖父は柔術家でパラグアイで英雄になっていたことも!
古館家の家系図
現在判明している家系は以下の通りです。
【高祖父】豊作
【曽祖父】峯蔵
【祖父】清治
【母方の祖父】堀口辰蔵
【祖母】ヒロ
【父】順太郎、母・安也子、姉・恵美子
高祖父・豊作さんは、佐賀県・伊万里市波多津で馬喰(牛馬の仲買人)を生業にしていました。
豊作さんの孫にあたる三代目で古舘伊知郎さんの祖父の清治(きよじ)さんが今回のファミリーヒストリーの中心となります。
清治さんは、当時朝鮮の貿易で栄えた仁川(インチョン)に渡りました。
選管居留地が有り、日本人、中国人、朝鮮人が共存する地区でした。
そして貿易会社「祐和盛」に就職しました。
その頃、古舘伊知郎さんの祖母となる田中ヒロさんが佐賀から慕って訪ねて来て交際が始まりました。
青島に移住
大正3年の第一次世界大戦で
戦勝国でもあった日本は
ドイツが植民地であって
租借地となった青島に移りました。
市場一路にある貿易会社
「吉澤洋行(よしざわよこう)」に就職しました。
当時、この地は日本人の会社やお店が軒を連ね中でも
1位2位を争う会社になっていました。
主に落花生で油を作って欧米に輸出して成功したそうです、
やがて清治さんは、ヒロさんと結婚し、自身の会社「古舘商工」を立ち上げました。
そして3人の子供をもうけました。
【長男】圭介
【次男】治郎
【三男】順太郎(ジュンタロウ・大正10年、1921年生まれ)
3兄弟の内の順太郎さんが、後の古舘伊知郎さんの父親となります。
事業は順風満帆でしたが
大正11年12月10日
青島を中国に返還すると先行き不安となった
多くの日本人は去っていきました。
その為、清治さんは新天地となる
青島から北へ約110キロ先の
龍口維新街で古着商「徳和」を商う事になりました。
「徳和」では、古着商から食料品の販売、石油会社、保険会社の代理店など多角経営で成功しました。
更に居留民の代表になっていました。
昭和10年一時帰国しビジネスの講演も行ったそうです。
清治さんは、伊万里市では一番の成功者となっていました。
富と名声を手に入れたのですね!
父・順太郎さんの生い立ち
古館清治さんの三男で
将来の古舘伊知郎さんの父となる
順太郎さんは中国大連の名門
旧制・大連第一中学校に進学しました。
校舎は重要文化財となり
大連理工大学の施設として現在も使われています。
大学は日本の早稲田大学に進学すると弁論部で活躍し
政治家を夢見ました。
しかし1944年(昭和19年)2年生の時
第1回学徒出陣で出征し
予備士官学校で陸軍の士官を目指しました。
士官となり、9月戦地である南方のジャワ島に
輸送船・長山丸(ちょうざんまる)で目指しました。
その際、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を通過しますが
この海域は米軍の潜水艦が日本軍の暗号を解読し
ルートを突き止め待ち受けており
「輸送船の墓場」
と呼ばれていました。
予想通り途中、輸送船が米軍の潜水艦ポンフレットから攻撃されていた。
目の前で同じ船団の津山丸が目の前で魚雷により真っ二つになり沈没しました。
やがて長山丸は、フィリピンのルソン島に辿り着きました。
しかし10月7日、潜水艦アスプロと潜水艦ポーの攻撃により魚雷が命中しました。
不幸中の幸いで、魚雷は不発弾でした。
長山丸は命からがらジャワ島に辿り着きインドシナ半島に転戦し、その後ランパーンに渡った所で終戦を迎えました。
順太郎さんは、おしゃべりが立つのに古舘伊知郎さんに戦争の事は語らなかったそうです。
順太郎さんは、1946年(昭和21年)日本に復員し、佐賀県の実家に戻りました。
それは戦争により中国を追われ財産を失った両親と暮らす為でした。
その頃、突然一人の女性が順太郎さんの元を訪ねました、
その訪ねた女性は堀口安也子(ほりぐちあやこさん)、後の妻となる人でした。
母親のルーツ堀口家
古舘伊知郎さんの母親堀口安也子さんは
大阪・尼崎がルーツで
商人の町大物の町が堀口家のルーツです。
安也子さんの祖父・堀口辰蔵(ほりぐちたつぞう)さんは、
古館清治と同じ頃朝鮮半島に渡り
大阪に米の自動精米機を生産し輸出する「仁川精米所」で働きました。
そして1915年(大正4年)に、これまた古館清治さんと同じ頃、中国・青島に移住しました。
偶然にも古館清治さんと同じ頃に
青島に食料雑貨店「三保商店」を開業し
青島駅前の立地に本店を構えるほどになりました。
米を扱う商店同士で、古館清治さんと堀口辰蔵さんは交流もあったとの事!
それだけで無く昭和2年(1927年)
堀口安也子さんは、古館順太郎さんと
同じ助産婦さんに取り上げられたそうです!
堀口辰蔵さんは青島が中国に返還されると
中国に見切りをつけ、日本に戻り
東京都北区滝野川に
「温泉科学研究所」を設立し
温泉の原液の成分の商品を作って販売を始めました。
参考にしたのは九州の
「別府温泉科学研究所」で
ここは温泉成分で薬を作って研究する会社でした。
この会社では、温泉成分により胃腸薬や陣痛剤が販売されていたそうです。
ここで学んだ堀口辰蔵さんは
温泉成分による
胃腸薬や淋病を販売し成功したそうです。
運命の出会い?
堀口安也子さんは、昭和15年(1940年)
十文字高等女学校(現・十文字中学・高等学校)に進学し、
日本初のオリンピック陸上選手・金栗四三氏から地理・歴史を学んだそうです。
この頃、父・辰蔵さんは英語の家庭教師を雇いました。
その家庭教師は、大陸の青島時代から同業者として付き合いがあった古館家の三男で早稲田大学に通う順太郎さんでした!
1945年(昭和20年4月)、堀口安也子さんは、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に進学しました。
この頃、家庭教師だった順太郎さんは学徒出陣により陸軍士官として戦地に赴いていました。
北区も空襲に会いましたが幸い被災を免れました。
翌年戦争が終わり順太郎さんが佐賀に復員し母親の仕事の海参の販売の手伝いをしている事を聞きつけました。
そして、父親の九州出張に付き添い順太郎さんの元を訪ねたそうです。
父親が九州に出張の度に付き添い佐賀を訪ね交際を続け
順太郎さんと安也子さんは、1948年(昭和23年)結婚しました。
その縁もあり、順太郎さんは堀口辰蔵さんの「温泉科学研究所」会社を手伝う事になりました。
その後、1954年(昭和29年)古舘伊知郎さんが誕生しました!
順太郎さんは従業員800人の「浜野繊維工業」からスカウトが有り入社すると
頭角を現し、総務部で人事を担当すると工場長から専務にまで上り詰めました。
しかし専務に昇進した頃は、安い輸入品で苦境に立たされました。
リストラをする責任者になり、230人にものぼる社員をリストラを行うことになりました
その代わり、リストラされる230人に再就職先の斡旋を行い、殆どが再就職したそうです。
しかし、順太郎さんはリストラされた人たちの、その後の人生を心配していたそうです!
父親の会社が中国の従業員と一緒に食事をする程、従業員を大切にする人だった事も有り、その血を受け継ぐ順太郎さんの本心は仲間である社員のリストラしたくなかったのでしょうね!
その後、昭和56年には、社長にまで上り詰めました!
学生時代の古舘伊知郎さんの学生時代
学生時代の古舘伊知郎さんは現在では信じられない様に
無口、シャイ、人見知りで特徴が無い正確と当時の学友に語られていました。
姪の原田みさこさんによると古舘伊知郎さんの
母は陽気で明るく無類のおしゃべりで、
姉の恵美子さんもおしゃべり
だった様で、その反対の性格だった古舘伊知郎さんは
人から募られたい気持ちがあったのでは?
とも語っていました。
近所の方の話によると毎晩、母親と姉が喧嘩していたと思っていたそうですよ!(笑)
実際は二人共声が大きく早口で話していただけだったそうですね(笑)
高校で転機
高校はエスカレーター式の
立教高等学校(現・立教新座高等学校)
に入学しました。
小学校からプロレスが大好きで
仲良しの森島稔さんがプロレスごっこで実況をしていた。
この頃からプロレスの実況解説の力をつけていた様ですね!
更に大学では即興の対談式のラジオ番組を作り才能が開花していました。
森島稔さんらの勧めも有り、アナウンサーを目指しアナウンスの学校にも通うことになりました。
そして、1977年(昭和55年)全国朝日放送に入社しました。
父・順太郎さんを
抜くことはいけないが
別なタイプの人生を歩もうと思っていたそうです。
入社すると直ぐに新日本プロレスの実況「ワールドプロレスリング」を任される事となり
● 〇〇のワンダーランド!
● お~っと!
● 人間山脈!
● 掟破りの逆サソリ!
など、古館節が炸裂し人気アナウンサーになり
この古館節は、後の新日本プロレスの実況アナウンサー辻よしなり氏など、歴代実況アナウンサーに引き継がれる様に!
そして昭和59年退職しフリーになりテレビ朝日の看板番組「報道ステーション」の司会やF1の中継や、民放出身アナとして初のNHK「紅白歌合戦」の司会も担当するようになりました。
父・順太郎が残したもの
父・順太郎さんは
「浜野繊維工業」を平成6年退職しました。
そして1988年(平成10年)この世を去りました。
享年76歳。
生前に遺影も自分で残すなど葬儀に手間をかけない様にするという最後まで気遣いの人だったそうですね。
父・順太郎さんは
古舘伊知郎さんの前では
絶対に褒めることをしませんでした。
しかし順太郎さんは
古舘伊知郎さんが掲載されていた雑誌の切り抜きを残していました。
更に古舘伊知郎さんの著作の本を20冊買って、取引先のお客さんに配っていたそうです。
古舘伊知郎さん曰く、含羞(がんしゅう・恥ずかしがる事)で人前で褒めない「男の美学」との事です。
古館節は父親の影響?
順太郎さんは、会社では演説上手だったそうです。
当時の部下は、古舘伊知郎さんが喋る時の口の形や喋り方がそっくりだ!と語っていました。
母親のマシンガントークと父親の演説上手がしっかり遺伝していたのでしょうね!
まとめ
今回は神回?
とも思える内容で
古舘伊知郎さん自身も知らない両親の生い立ちや結婚の経緯が紐解かれました。
祖父が同じ時期に朝鮮半島~中国青島で穀物商で財を成し
両親は同じ助産師さんから取り出され
馴れ初めは、日本に帰国すると家庭教師と生徒の間柄となった偶然から
戦争で戦地に向かう途中の輸送船がアメリカ軍の潜水艦2隻の魚雷の直撃を受けるも不発弾だったという偶然
など、幾つもの偶然が重なった奇跡とも言える古館家の歴史は、驚きの連続でした!
もし、魚雷が爆発していたら古舘伊知郎さんは誕生していなかったかもしれないし、プロレスの古館節にの実況が生まれず、スポーツ実況はどうなっていたのだろう?
と考えてしまいました。
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