ファミリーヒストリー 森進一の婚約不履行や母親と父親との和解!再放送や見逃し動画配信とネタバレと家系図!

5月 31, 2021

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今回のファミリーヒストリーは「森進一~絶唱の原点 苦難を乗り越え~」と題し、歌手の森進一さんのルーツに迫りました。

【本放送】2021年5月31日(月曜日)19:30 ~ 20:42 (72分)
【再放送】2021年4月29日(木曜日)23時40 ~ 0時52分 (72分)

・ファミリーヒストリー 森進一あらすじ
・ファミリーヒストリーのレビュー(ネタバレ・家系図など)
・ファミリーヒストリーの見逃し動画はU-NEXTで配信されている
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「森進一~絶唱の原点 苦難を乗り越え~」あらすじ

森進一さんの本名は、森内 一寛(もりうち かずひろ)です。

母・森内尚子さん方の曽祖父は明治末、鹿児島下甑島(しもこしきしま)で、かんざしなどを飾るサンゴ漁を収めました。

しかし祖父の代で不漁になり、朝鮮半島清津市(チョンジン 現・朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道の道都)に渡り食品店を始めたそうです。

その3軒先が山梨出身の父方の営む米屋家だったそうです。

戦争が終わると二人は結婚し父親の出身地山梨県甲府市に居を構えました。

そして、二人の間に一寛さん、後の森進一さんが誕生しました。

しかし、一寛さんが小学生の時に離婚しました。

その為、母親に引き取られ森内性となり、母の郷里・鹿児島に落ち着きました。

母子家庭で生活が苦しく母を助けるため中学を出て大阪で働き始めた森さんは、職を転々とするうちテレビの素人参加歌番組し優勝した事が目に止まり「森進一」として歌手デビューしました。

現在、3人の息子の内、長男は、ONE OK ROCKのボーカルTakaとして、三男は、MY FIRST STORYのHiroとして自身と同じ歌手として活躍する息子たちも父のことを語りました。

激動の時代を生き抜いた家族の歳月がファミリーヒストリーで明らかになります。

生い立ち

森進一さんは、山梨県甲府市で誕生しました。

母子家庭で沼津、下関などを転々とし、最終的には母の郷里・鹿児島に落ち着きました。

鹿児島市立長田中学校卒業と同時に集団就職で大阪に出て移住しました。

家族に仕送りするために少しでもいい賃金を求めて17回も職を替えたそうですね。

母親方(森内家)のルーツと家系図

【5代前】丈作
【4代前】丈八
【曽祖父】才八
【曽祖母】フノ
【祖父】喜一郎
【祖母】フノエ
【母】尚子
【本人】一寛(森進一)
【長男】貴寛 ONE OK ROCKのボーカルTaka
【次男】智寛 テレビ東京勤務
【三男】寛樹 MY FIRST STORYのHiro

森内家についてのルーツを教えてくれたのは俳優の小倉一郎さんでした。

小倉一郎さんと森進一さんは曾祖母さん同士が姉妹だったそうです。

小倉一郎さんの曽祖母の名は、オフミさんです。

ルーツは熊本県・上天草市 野釜島に有りました。

森内家の曽祖父・才八さんは、30代で宝石珊瑚の漁師を束ねる親方になっていたそうです。

小倉一郎さんの曽祖父も宝石珊瑚の漁師だったそうです。

祖父・喜一郎の代で不漁になり、大正13年朝鮮半島清津市(ソ連との国境)に渡りました。

日露戦争で日本軍の上陸地点となった場所だそうです。

埠頭のそばの弥生町に食品店「中山食品本店」を開店しました。

店名は、旧姓・中山喜一郎から「中山食品本店」としたそうです。

そして大正14年尚子さんが生まれました。

昭和14年・清津高等女学校に入学しました。

3軒先が仲良しの白砂三姉妹が住む米屋家「白砂米店」でした。

尚子さんさんは、この長男の海軍兵・白砂三郎さんに好意を持っていたそうです。

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父親方(白砂家)のルーツと家系図

山梨県北巨摩郡白州町
【曽祖父】清兵衛
【祖父】三四郎(明治18年・1885年生まれ)
【祖母】かつよ
【父】三郎(大正6年・1917年生まれ・三四郎の3男)
【本人】一寛(森進一)

村を代表する役職だったそうです。

明治39年三四郎さんは村を出ました。

そして朝鮮半島清津市に渡り米屋家「白砂米店」を開きました。

貸金業も営んでいたそうです。

三四郎さんは歌が上手かったそうです。

これは隔世遺伝ではないでしょうか?

三郎さんは、郷中教育の「敬愛学舎」という私塾に通っていたそうです。

昭和8年(1933年) 山梨県の甲府商業学校甲府商業高校に入学しました。

卒業後は日中戦争の機運が高まった影響で、昭和12年(1937年)出征・横須賀海軍に入隊し「駆逐艦五月雨」に配属となったそうです。

間もなく日中戦争が勃発し、商業学校に通っていたことから軍の会計を担う「主計科」に配属されたそうです。

一方この頃、尚子さんの母・森内フノさん、三郎さんの母・白砂かつよさんの間で結婚の話を進めていたそうです。

太平洋戦争勃発

やがて太平洋戦争も勃発し、「駆逐艦五月雨」は南太平洋が主戦場になりました。

昭和19年(1944年)2月トラック島空襲で戦艦大和・武蔵など主力艦隊を除く部隊(輸送艦・基地航空隊)は壊滅状態となってしまいました。

難を逃れた三郎さんは、横須賀で主計兵曹に進級しました。

ソ連軍の参戦

昭和20年(1945年)8月9日ソ連が参戦し、8月13日に清津市に攻め入りました。

清津市に住んでいた日本人は、南に向かって逃げました。

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38度線を設定した為、それより南下が出来ませんでした。

20万人を超える日本人が逃げ場を失って、子どもたちは、栄養失調で亡くなったり、シラミによるチフスなどにかかり健康状態が悪化していました。

逃げる間に邦人は、3万5千人が亡くなりました。

そんな過酷な状況の中、尚子さんは、21年11月9日下関に上陸出来ました。

許嫁となっていたので白砂家と一緒に日本の土を踏んだそうです。

そして山梨の本家に向かったそうです。

そこには復員した、白砂三郎さんがいました。

本家には、白砂家の分家12家族が身を寄せていました。

そこで尚子さん三郎さんは、再会を果たしました。

尚子さん三郎さんは、森内家の本家に近い熊本県・上天草市会津に渡りました。

そこでは尚子さんの祖父・喜一郎さんが食料品・雑貨を扱う商売を始めていました。

祖母・フノエさんは昭和15年他界していました。

その為、喜一郎さんは再婚し会津に居を構えていたのでした。

半年間同居しましたが、三郎さんと喜一郎さんは馬が合わなかった為、山梨県甲府市に戻ったそうです。

三郎さんは、絹織物の行商を始めました。

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一寛(森進一)誕生

そして昭和22年(1947年)長男・一寛(森進一)が誕生しました。

三郎さんは、絹織物の商売はうまくいかず、昭和29年沼津で新しい仕事を始めました。

そんな中、昭和32年(1957年)小学4年生の時、母親が弟と妹を連れて出ていくところに出会い、一緒に沼津を離れました。

三郎さんは他の女性と親密になり別居状態だったそうです。

三郎さんの妹・琴司さんをたより下関に住む事になりました。

妹さんを頼ったのはいつか復縁があることを祈っていたからだそうです。

そして売店で働く様になりました。

しかし持病のため、思うように働けなかったそうです。

汽車に飛び込み無視心中ををしようとしていた所、「将来その子たち世間の役に立つから」占い師に呼び止められ思い直したそうです。

その後、生活保護を受け、母子寮に移りました。

10歳になると新聞配達と牛乳配達を始め生活を支えました。

一寛さんは、中学になると母親の実家を頼り鹿児島に移り住みました。

尚子さんは、ラーメン屋さんで働く事になりました。

集団就職

一寛さんは昭和38年(1963年)鹿児島市立長田中学校卒業と同時に集団就職で大阪に出て移住しました。

鹿児島駅を出発してすぐに
車窓から汽車を追いかけてくる母をを見つけ
「一生懸命頑張るんだよ」
と見送ってくれた事を今でも覚えているそうです。

家族に仕送りするために少しでもいい賃金を求めて寿司屋から工場など、17回も職を替えたそうです。

昭和39年(1964年)あてもなく上京しました。

尚子さんの従姉妹・治郎丸宣子さんに連絡し、井の頭公園で野宿をしている、と伝えたそうです。

そして宣子さんに迎えられることになりました。

その頃、宣子さん宅でギターで弾き語りをよくしていたそうです。

そんな姿を目撃したもうひとりの尚子さんの従姉妹・惠子さんが一寛さんの運命を変える事になりました!

従姉妹・惠子さんがフジテレビ系の素人参加歌番組「リズム歌合戦」に一寛さんを推薦するハガキを出し、出演が決まったのでした。

歌手デビュー

1965年(昭和40年)、フジテレビ系の素人参加歌番組「リズム歌合戦」に出場して5週連続勝ち越し優勝しました。

番組でオーケストラの指揮、をしていた音楽プロデューサー・チャーリー石黒さんにその才能を見出され住み込む事になりました。

母親に仕送りが出来ない悩みを打ち明けると、スクールメイツとしてバックダンサーとして歌番組に出演も出来るようになりました。

さらに作曲家・猪俣公章さんの下でレッスンを受けられるようにもなりました。

そのレッスンを録音したテープがレコード会社で「面白い声だ」と評価されデビューが決まりました。

実は、これは猪俣公章さんの戦略で、森進一さんは元々透き通る綺麗な高い声でしたが、それでは他の歌手の間で個性が埋もれてしまう、という懸念があったため、ブルース歌手の様にしゃがれ声になるようにボイストレーニングをしていたのでした!

芸能事務所は、渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属する事になりました。

そして芸名は、ハナ肇さんの案で、本名の「森内」と「一寛」から一字ずつ取り、ナベプロの創業者・渡辺晋の「シン」を進と表記し組み合わせて「森進一」に決まりました。

そして、18歳にして「女のためいき」でデビューを果たしました。

しかし皮肉な事に、その曲を聴いた尚子さんは「10代の息子が女心を歌う」という事にショックを受け、寝込んでしまったそうです。

そして、昭和46年尚子さんをモデルにした「おふくろさん」で紅白出場を果たしました。

尚子さんは「おふくろさん」を聴いて「私はこんな立派な母親じゃないよ」と語ったそうです。

婚約不履行で母親が自殺?

昭和47年、森進一さんは、事実無根の婚約不履行のせいで訴えられました。

今で言うストーカーの様な女性で尚子さんが住む家に押しかけたそうです。

森進一さんは会ったことも無い女性だったそうです。

ファンだと言っていたので「息子がお世話になっている」と感じ、家に上げてお茶を入れてあげたそうです。

その事が誤解を招くきっかけとなってしまった、と感じ、昭和48年(1973年)2月、尚子さんは47歳の若さで自ら命を絶ったそうです。

そして、半年後の8月この事件では森進一さんは、虚しいだけの無罪を勝ち取りました。

母親を楽にさせたい、という気持ちを持ち続けていた事が歌手活動のモチベーションだっただけに、歌手として引退も考えたそうです。

そんな時、救ったのが名曲「襟裳岬」の歌詞でした。

「静かに笑ってしまおう」

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父・三郎さんと再会

7回忌では、父・三郎さんと再会を果たしました。

三郎さんを呼ぶことを三郎さんに捨てられたと感じていた弟さん、妹さんは反対したそうです。

「お父さんがいて、お母さんがいて私達が産まれたんだ」

「もう何年も経った」

と、弟さん、妹さんを説得して呼んだのだそうです。

2015年(平成27年)第66回NHK紅白歌合戦から退く事を決めました。

そして最後の舞台に選んだ歌が「おふくろさん」でした。

ファミリーヒストリー見逃し動画配信

ファミリーヒストリー「森進一」は5月31日です。

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